ご用事なあに
ロックナンバーと話をして七日ほどが経過した。
ヒバルの推測通り、住民の好奇心はすっかりロックナンバーに向けられた。あの人物は背も高く言動が目立つため、陰気な小説家よりも話題に困らないのだ。
シドーはあれから自分の仕事を片付けると言って、ヒバルと共に業務に専念するため暫く声をかけにくい状態になった。ダミアンもヒバルの指示で簡単な書類整理や他の従業員たちへの伝言や書類配達を任された。
町中を歩けばシドーが隣にいても奇異の目を向けられていたのだが、いまや人々の話の種はロックナンバー一色である。一人で歩いていても物珍しそうな視線を浴びることが少なくなった。全く民衆の単純さを感じてしまってげんなりしている。
一通り歩きまわってまた事務所に戻ろうとしたところ、見覚えのあるシルエットが街角に消えたのを見た。
「シアン?」
洋上賃貸の付近か、もう少し向こうの海岸にいるのではなかったのか。他人の空似かと思われたが、特徴ある容姿を見間違えることもないだろう。ダミアンはその後姿を探して早足になった。方角はあの洋上賃貸だ。なおさら、街角に消えたのがシアンなのではないかと思い始めていた。
少しずつ元通りになりつつある洋上賃貸の様子は時間の流れを感じさせた。
「ラムラスさん! ちょうどいいところに」
修繕に携わっているという団体だ。リーダーと思しき男性が近づいてきた。
「今日はシドー様はご一緒ではないんですか?」
「あぁ、彼は……」
ダミアンの我儘に付き合わせてしまったために彼の仕事が進んでいない。なので当面はこちらに来ない。
などと言う達者な口は持ち合わせていない。
「別件対応中なんですよ」
「そうでしたか……では、伝言を頼みたいのですが、よろしいでしょうか」
携帯デバイスはベルティナでは一般的ではない。ヒバルは持っていたようだが、この付近の人間なら持っていないのが当たり前だろう。ダミアンはメモ帳とペンを取り出した。
「どうぞ。シドーさんでいいんですよね?」
「ええ。実は今日、出勤していない奴が一人いまして。我々は町で一旦、集合して打ち合わせをしてからここに来るんですが……」
彼が寝起きしている一室には誰もいなかった。仕事が終わって解散したところまでは見ているが、その後からの足取りが掴めないらしい。室内の様子では、おそらく帰宅していないのではないかということだった。隣人を訪ねたものの心当たりはないという。
これだけでは事件性を確信するには足りないが、男性は気弱ながらも仕事には真面目に取り組み遅刻や無断欠勤もなかったという。成人した男性であるし、怪獣騒ぎもある上、戦闘集団もやってきている。不安を覚えた者が町を離れるとしたら理由にはなりそうだが、リーダーの様子からするとそれもありえないような人物なのだろう。
「わかりました。伝えておきますね」
「お願いします」
修繕団体のリーダーと別れて、少し歩いた時。後ろをついて歩く足音に気がついた。砂を踏む足音。振り返ると、穏やかな笑みを向けているシアンが立っていた。
「おや……居たんですね。気がつきませんでした」
「こんにちは」
どこにいたのだろう。修繕団体のリーダーと話している間に近づいてきたのだろうか。
以前会った時とは異なる衣類を着ている。色味は相変わらず青とか緑とかその中間の濃淡くらいの差でしかないが、薄手の上着を羽織り、シャツを着てスカートを揺らしている。靴もサンダルではなくスニーカーのようだ。
街角に消えた姿とは違う気がする。ダミアンは違和感を覚えずにいられなかった。
「今日は少し雰囲気が違いますね」
浮浪者とは思えない。むしろ身綺麗な方である。しかし決定的なことは言えず、曖昧で遠回しな言い方しかできなかったし、シアンもただ笑みを向けるだけで答えなかった。
「あなたの名前、ラムラス?」
「え? ああ、きちんと自己紹介していませんでしたっけ。すみません……」
まだ違和感の中にいるが、それが何なのかわからない。相談相手もいない。話を続けることにした。
「私はダミアンと申します。ダミアン・ラムラスです」
「ダミアン」
「ええ。……あなたにも本当は名前があるのではないですか? シアンなんて、その……」
無知が呼び込んだ名前だ。彼女を所有していると主張するために彼女の体に色をつけるなど。その色から連想する名前もまた色の名前だなどと。悪趣味だと思ったのだ。
だがシアンは首を横に振った。
「わたしに名前はないから。シアンでいい」
「そうですか……」
名前がないなんてことがあるのか。確かに現代は荒れているが、成人してもなお、名前も与えないなど。
「ダミアンはこれからどこへ行く?」
「用件は済んだので、いま預かった伝言を届けに戻るところです」
ヒバルはシアンとの関わりを嫌がるだろう。彼は有力者だが、だからこそ身分の明らかでない者と関わるべきではない。実際、浮浪者の話をした時も寛容な態度とは言えないものだった。蹴散らすようなことはしないが、受け入れるには難色を示している。それはシドーも同じはずだ。
シアンをあの事務所に連れて行くことはできない。
「少し、一緒にいたい」
女性からそう言われて気分が変わらない男性なんて数えるくらいしかいないだろう。まして、ダミアンには守るべき家族や使命なんてものもない。巷の話題はすっかりロックナンバーに注目していることだし、少しカフェに入るくらいなら問題ないと判断してしまった。今のシアンは街中にいても目立ちはしない。確かに青緑系統でまとめたコーディネートではあるが、悪目立ちするほどのものではない。
そう思った。
「ラムラスさん?」
声をかけたのはサーディと名乗っていた女性だ。
このカフェは先日、シドーを伴ってシアンを病院に連れて行こうとして失敗した日に入った店である。相変わらず室内に入ることを嫌がり、新しい場所へ行くのも抵抗を見せたものの、一度行ったことのあるものと食べたことのあるものなら問題ないようだ。シアンにはまたシフォンケーキとアイスミルクティーを注文し、それがテーブルに並んで店員が離れた時のことだった。
ダミアンの手元ではコーヒーが湯気を細く伸ばしている。
「あ……ええと」
「お邪魔してしまってすみません。ヒバル様のオフィスにいらっしゃらなかったものですから、探しておりました」
言って、サーディはダミアンの断りを待たずに同じテーブルの空いた椅子に座った。シアンは興味もない様子でシフォンケーキを頬張っている。
放っておいて良さそうだ。ダミアンは店員を呼びつけつつ話を向けた。
「コーヒーは飲まれますか? ここのコーヒーはまろやかで美味しいですよ」
「では頂きましょう。ミルクと砂糖もお願いします」
何も飲まず食わずで席をとるわけにはいかない。サーディは以前会った時よりも幾分柔和な顔つきではあったが、疲労を感じさせる影があった。コーヒーが届くまでの間ですら、わずかな休憩になっているようだ。
「お邪魔してしまってすみません。アポもなく訪問したのがよくなかったのですが」
「ああ、いえ。それで、私に何か?」
両手でミルクティーのグラスを持つシアンの目が初めてサーディに向いた。ダミアンに向けるものとは違う色をしているように見えたが、彼女にとって知らない人間は警戒対象なのかもしれない。
「飽きた話題かもしれませんが、海の怪獣について」
スッと空気が変わった気がした。開放感のあるオープンテラスの席にいるのに緊張感を覚える。
からんとシアンのミルクティーの氷が音を鳴らした。
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