ヒバル:歴史の塵(2/3)
シドーは呼び出しに素直に応じた。
他の部下たちの好奇の眼差しを払い除け、シドーはシェアハウスの四階にやってきた。リョースケが寝起きし、簡単な書類作業をするためのデスクがあり、一人の時間を楽しむための空間があるフロアだ。
一歩、二歩と歩み寄る彼の足取りは重たく、トレードマークのような慇懃無礼さもなく肩を落としている様子が痛ましい。涼しい顔をして仕事をこなし、自分に確たる自信を持つ彼の表情は、今は曇ってしまって弱気にすら見えた。
「お待たせしました」
「ああ、そこに座れ」
逆らう様子もなく従順にシドーは指示された席に着く。
オフィス内、リョースケが書類仕事をするデスクから少し離れたところにソファが二つ向かい合って置かれ、ローテーブルがある。リョースケがシドーに着席するよう指示した場所だ。休憩や仮眠をとるのに使うエリアである。
リョースケは何も言わず、グラスに水を注いでシドーに向けた。驚いた顔をしてシドーは立ち上がりかけたがそれを制してやる。
「いい。俺がやりたくてやってるんだ」
何か言いたそうにしているシドーだが、言葉にできないようでそこで眉根をしかめている。口元は開きそうに動きつつも、やはりそれ以上は動かなかった。
「ラムラスさんに会ってきた」
向かい合うように椅子を動かし、どっかりと腰を下ろす。ソファからホスッと気の抜ける音が聞こえた。
しかしそんな間抜けな音では緊張感を緩めることもできなかった。
リョースケの言葉にシドーの黒い瞳が揺れ動いた。動揺しているのではなく、話の意図を汲もうとしている動きだ。
「明日には退院するらしい。海に落ちた経緯は分からなかったが、夜とはいえそこまで海水が冷たくなる時期ではなかったことも幸いしたな。とりあえず元気そうだったよ」
悪い知らせではない。俯きかかっているシドーの表情は少しの安堵と困惑を見せている。不遜な態度を見せることとなく、覇気のない声でシドーは短く感想を口にした。
「そうですか」
「しつこくなって悪いが、この話の整理がしたい。わかるな?」
嫌な顔はせず、シドーは淡々と話した。
語学学習の話の発端は、ベルティナに住んでいるシドーの顧客たちが文字の読み書きを学びたいと相談を持ちかけたことだった。
彼らがシドーに相談したのは、シドーが管理する物件に小説家ダミアン・ラムラスが住み始めたことがきっかけだった。さらにその後も行動を共にする様子が何度も見られたため、一部の住民がシドーの袖を引いたのだった。
ラムラスの不名誉なスキャンダルについて触れる者もいた。しかし片田舎の者どもにとって都会で囁かれ嘲笑されるゴシップなんてものは多くの場合、どうでもいいことだ。重要なのは、都会で小説家をしていたのなら当たり前に文字も読めるし書けるいうことだった。
この件をシドーがリョースケに相談したのもその頃であった。まずは支払いが出来ると約束できる者と、実際に支払い能力がある者を洗い出させた。その後に再び顧客らに学ぶ意志があるのかを尋ねた結果、
一昨日は実際にラムラスをその三人に会わせて目標や要望をヒアリングさせた。一日で回らせる無茶をする判断をしたのはシドーである。その翌日、つまり昨日。ラムラスは語学教師の必要性を考えた結果、引き受ける旨の話をするため事務所にやってきた。
シドーはここでラムラスに怒声を浴びせている。
「なあ、どうしてそんなことをしたんだ? いまになって都会人や知識人がまた気に入らなくなったのか?」
ラムラスが搬送されてすぐの時、シドーは頑として口を割らなかった。しかし今回は観念したように眉を困らせ、口を開いてポツリと言った。
「面白くなかったんです」
その回答は全くもって、非行や犯罪に走る若者の言い分であった。
「ベルティナを歩き回るだけでヘタってバテるような奴が……ああ、いや」
「構わねえから言え。大事な話だ」
口調を崩して促してやると、シドーはがっくりと脱力した様子で頭を下ろした。やがて何度か小さく頷くように動いたのち、何かの諦めがついたらしく改めて顔を上げた。
「どうせ出来ない、断るだろうって思ったんです。それか、断りきれずにヘラヘラ笑いながら安請け合いするのかと。
……でもそうじゃなかった。あいつ、時間がかかってもいいから、勉強がしたいと思ってる奴にはそうした方がいいって、それがベルティナをもっと良くするからとか抜かしやがった!」
それが面白くなかったのだ。シドーにとって、都会人というのは口だけで何もしない人間のことだった。金を抱き込んだ、血肉と黒い臓物の詰まった皮袋。彼らの価値とはまさにその金でしかないのである。
一日で三人全てにヒアリングしたのも、スケジュールの都合ではなく別の狙いであった。シドーは言葉を使わずに「どうだ、お前には無理だろう」と告げていたのだ。
だがそうならなかった。
むしろ、希望者たちの学習意欲を好ましく感じたラムラスはこれに応じることがベルティナへの貢献だと考えたのである。
小説家ダミアン・ラムラスの前身は子どもたちを相手にする語学教師だった。小説を書くきっかけとなった民俗学はその傍らで進めていた学問であると、彼はいくつかのメディアのインタビューで答えている。
両親は教育現場に携わる人間だったらしい。これらの背景を知っていれば、シドーがこんなにもくだらない賭け事に敗けて怒声を発することもなかったに違いない。
あの小説家には妙な噂が絶えないが、本人は比較的善性の強い人間である。精神的な弱さはそれに起因するものであることも自明というものだ。
「バカなのは俺の方だってのはわかってるんですよ。……俺はまだ、足を洗いきってはいないみたいだ」
「そうでもねえよ」
言って、リョースケはソファの背もたれに自身の広い背中を預けた。肺の中に溜まった疑念の霧を吐き出すように、深く曇った吐息を漏らす。どっかりと深く腰掛け、両腕を背もたれの肩に預け、なにげなく見上げた天井。
「実はよ」
「……はい」
「ラムラスさんが海に落ちたのには何か理由があるんじゃねえかと思ってんだがよ」
リョースケは天井を見上げたままで言い、少しの間を置いてから起き上がって座り直した。正面に座するシドーは言葉を把握しようとしているようだが、まだ察しきれてはいないようだ。
リョースケは言葉を続けることにした。
「ラムラスさんは酒を飲まないんだ。付き合いであっても、ネクターを薄めたような度数の低いやつを飲むらしい。あの人が酒を飲んでるのは見たことないだろ?」
「まあ、そうですね。家でも飲まないんですか?」
「だと思うぜ。タバコも酒もしない。だから酒に酔って桟橋から落ちたはずはない」
シドーの顔色が変わった。リョースケが何を考えているのかをようやく察したようだ。
どう動くか? 何を話す?
リョースケは表情には出さず、言葉を続ける。
「お前の怒声に対して、ラムラスさんは正面から対峙したらしいな。あの人は教育者でもあったから、譲れない理念みたいなのがあったんだろ。
お前に吠えかかられて退かない都会人なんて、そういないぜ。だからお前……」
「ヒバルさん!」
ガタン、と床を鳴らしてシドーは立ち上がった。何も言わずにそのあとの言葉を待ってやると、シドーは次第に
その視線は思考を巡らせているのがわかるほどにぐるぐると、しかしぎこちなく動いていったりきたりしている。リョースケはなおも動きを見せず、何も言わずにシドーに発言を促した。
「俺……疑われてるんですか?」
「可能性はある、ってだけだ。ラムラスさんは当時のことを『覚えていない』と言った。お前はあの人が溺死する直前で救出することができた。
見方によっては、ラムラスさんがお前を庇っているように見えるんだよ。お前の行動も死なせるつもりはなくて、慌てて引き揚げたと言っても繋がりそうなものだしな」
シドーは受け入れ難いその話に首を振った。その眼差しは怯えたように、助けを求めるような色をしてリョースケにすがっていた。
「オレ、俺はやってないですよ! ラムラスさんが浮かんでたのを見つけたのも偶然です!」
「じゃあなんでお前は洋上賃貸なんかに行ったんだよ」
ぐ、とシドーは言葉に詰まった。
そこなのだ。この事故において最も不自然な点。
シドーは何をしに洋上賃貸に行ったのか。
まさか怒鳴ったことを謝りに行ったわけではあるまい。ラムラスが救出され搬送されたのは夜間帯だ。そんな時間に謝罪に行くほど、シドーは常識知らずではない。
シドーの回答はしかし、全く頼りないものだった。
「分からない、です……」
「あ?」
「あの日、あの夜は本当に……よく覚えてねえけど……海に行かないといけない、と思ったんです。
目的もないのに。何か探さないといけないような……でも何かを落としたわけじゃないし、夜なんかに探し物なんか非効率だ。でもあの日は……そうじゃなかった」
シドーは分かった振りをすることはないし、その逆の振る舞いをすることもない。だからこそ自信に満ちた言動と態度をとり、それが揺らぐことはほとんどない。それがこんなにも自信がなさそうに話すのだ。
リョースケに対して嘘を言うことは思えない。それは彼にとって全くメリットのない行動だからだ。
もう、この尋問めいた時間も終わらせて、何らかの結論を出さなければならない。
「嘘じゃあねえんだな」
「はい」
「分かった。俺はお前を信じる。もしこの件でおかしなことを
もしこれでシドーがラムラスを海に落としたのが真実だとすれば、リョースケの立場も危うくなる。そうなればシドーはもちろん他の部下たちも行き場を失うだろうし、ベルティナはもう再建できなくなるかもしれない。あるいは襲撃者たちの拠点となってしまうか。
シドーの様子は嘘を言っているようにも見えない。本当にそうなのか、違うのかを確認するにはもう手がかりがない。
それなのに余計なカードは増えてしまった。それはシドーが部屋を出る間際に言った言葉だった。
「なにか、切羽詰まったような感覚でした。呼ばれたような、約束の時間に遅れてしまうような。俺は知らないのに、体が知っていて勝手に焦って……」
体が知っていて、勝手に焦っている。
なんだそれは? シドーは答えなかった。当然である。先ほど彼は「分からない」と答えたのだ。
礼儀もそこそこに、肩を落とした後ろ姿を見せながら去るシドーを見送った。その脳裏にはこれまで聞いた声と言葉が巡っている。
シドーの発言に似たことを話した者がいた。それはなんだったか。辿り着いたのはこの言葉だった。
『その直前のこともあんまり覚えてないんですけどね』
(こじつけか……? いや、しかし……)
二人の当事者がそろって曖昧なことを言っている。口裏を合わせているのか、そうでないならどうしてなのか。
何かが起きている。それとももう起こっているのか。確実なのは、そのどちらだとしても完全に後手に回っているということだ。
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