シアン:うそ(5/7)
シアンの腕を引きつつ避難行動に加わったダミアンは、今は一時的な隠れ場所に身を潜めている。
この状況で多人数の移動は危険だ。レッドホーンの店員は流動的に指示を出し合い、やがて三人四人程度の集まりで移動することを提案した。
ダミアンもその小さなチームにいたはずだが、避難訓練に参加したことのないシアンは辺りを気にせず走り出してしまう。ふらっと離れてしまいそうになるのを追いかけ、捕まえた時にはもうレッドホーンの店員や客たちからはぐれてしまった。
「危ないので離れないでください。お願いですから言うことを聞いて……」
「なぜ逃げないのですか。こっちになら」
「自分本位な行動と思いつきの行動は、今は絶対にしてはいけません」
シアンは不満そうに口をつぐんだ。
(こっちならいない)(誰もいない。ダミアンは助かる)
(そちらに隠れてるのに)(シナモノのニンゲン隠れてる)
(ダミアンは知らない)(私たちが導くのに)
(人間は何も知らない。ダミアンには従え)
(ジブンホンイってなに?)(ダミアンの言うことは聞く)
ひとまずは細い路地に逃げ込み、積み上げられた木箱の陰に隠れることにした。本来、使わなくなった空き箱などを、このような細い路地に放置することは一時的であっても推奨されていない。だが今までそのように使っていた場合は、その運用を改善するために時間を要する場合がある。
今回はそれが幸いしたようだ。バタバタと騒々しい足音が遠ざかるのを聞いて、少しだけダミアンは胸を撫で下ろすことができた。ずっとシアンの腕を掴んだままだったことにも気がついた。
「すみません、痛くなかったですか?」
言いながら手を放し、シアンの方を見る。シアンは掴まれていた部分をただただ、じっと見つめていた。
「痛みはないです。喜ばしい」
「え?」
シアンはそれ以上を詳しく言わなかったし、詳しく聞かせて欲しいとも言えなかった。
困惑、疑問。それらがたくさん巡っているのに、今はまず安全を確保しなければならないために大いに混乱している。
ダミアンは深呼吸する。まずは落ち着かなくてはならない。
(その疑問は消してやろう。あなたにそれらは必要ない)
ほんの少し、ほんの少しだけ糸を引くように。繊細な切り絵や刺繍の作品の、その線の動きと緻密さを目線で追うように。呼吸をゆっくりと深く、繰り返すことで思考が冴えてくる。周囲の状況を把握できるようになる。
「目の前のことだけを考えよう。他のことはなんでも後回しだ」
(あなたが呼吸するたびに、あなたからその疑問と記憶は消える)
この慣れない緊張感ですぐに呼吸を忘れてしまいそうになる。
深く吸って吐いた呼吸が思考の隙間を頭の中に作り出す。まず目指すべきは避難場所だ。ベルティナにはいくつか指定されている場所があるが、現在地からの最寄りは資材倉庫の地下である。
資材置き場は火気に弱い問題を抱えていることと、長年耐えてきた潮風による耐久不足が懸念される場所ではあるものの、地下はしっかりとした基礎で組まれた場所である。いつかは改装が必要とはいえ、今のところは避難所として十分な機能をもっている。数日に及ぶ船上での活動に備えるため、水と食料の備蓄にも不安がない。
しかしその資材置き場へ向かう方面には襲撃者たちの影が絶え間なく行き交っている。不穏な予感を覚えた。
「偶然、にしては集中しているような……」
どうする。
少し離れた避難所を目指すか。それともそのまま資材倉庫を目指すか。
どちらも大差ないだろう。こういう状況の経験が少ないダミアンにとって、優柔不断さがいよいよ強まってしまっている。情報がない今、どう動いたとしても最善であるとは言えない。
キィ、と小さな、かすかな音がした。木製の扉、サビに耐える蝶番の軋む音。よりにもよって背後、上部から聞こえた。
自分でも驚くほどの瞬発力で振り返った。音は一瞬だけだったが、鳴り止む前にその音源と思しき方へ向いた。
窓がある。この細い路地を細くしている要因の建物の、おそらく三階にあるであろう高さにある窓だ。窓は二つ三つと並んでいるが、そのうち一つがうっすら開いて細い隙間を作っている。それだけなら気にならないが、ダミアンが振り向いたその瞬間に人の指が引っ込んだのを見た。
人がいるのだ、と判断した瞬間、今度はその窓から手の小指程度の大きさの白い何かがポロリと落ちてきた。それは巻いた紙だった。
見覚えのある紙だ。その場で広げてみる。記入欄と項目名こそ印刷されてはいるものの、書かれているのは極めて簡略化された特徴ある魚、貝類の絵。数字のようなもの。
文字を学びたいと言っていた人物の一人である若い漁師の男性が、独学で学ぼうとして持ち出していた取引伝票だった。
なぜ落ちてきた? いや、こちらに寄越したのか。
シアンが不可解そうにしてこちらを見ている中、ダミアンはその意図を汲もうとじっくりと紙面に視線を走らせる。
稚拙な取引伝票。これだけを見てほしいなら巻いた状態でこちらに寄越さないだろうし、襲撃者たちの注意を惹きたいならもう少し違うやり方があるだろう。ダミアンは裏面を見た。
文字はない。だが簡易的な地図が書かれていた。
おそらくこの細い路地、そしてダミアンの現在地を黒く塗りつぶした丸で示しているのが分かる。そこから線が引かれ、途中は点線になりながら路地を抜けるように示し、右に曲がり、再び右に曲がって線は壁面にぶつかった。目印に描かれている通りならば、この路地を形作る建物の壁にあたると思われた。
それこそあの開いた窓のある建物であり、この地図を描いた何者かが居るであろう場所なのだろう。
あの窓はもう閉まっている。
(なにこれ?)(薄い)
(紙。ニンゲンのコミュニケーションツールの一つ)
(こみゅにけーしょん??)(つーる? すべすべ?)
(知識の共有が遅い。入れ替えなければ)
どうするべきだろうか。あの漁師の男性が寄越したものだと考えられるが、違う場合は釣られてしまうことになる。しかしこの細い路地に何者かの足音が迫り通り過ぎていくのを聞きながら隠れひそむこともできそうにない。ダミアンにはそこまでの胆力はない。
「いつまでもここにいられない……」
ダミアンは言い聞かせるように呟く。襲撃者を前に恐れる様子もなく一人で挑んだシドーの後ろ姿が浮かぶ。
彼はあのような状況に慣れているのかもしれない。自分はそうではない。では何もできないのかと言えばそうではないだろう。最善は何かと考えて、動くのだ。戦う必要はない。逃げればいい。追ってくるなら妨害する何かを見つけてやればいい。
腹を括る時だ。
「行きましょう。できるだけ私から離れないで、静かについてきてください」
(あなたは死なせない)
シアンはまっすぐにこちらを見て静かに頷いた。
改めて地図を見る。路地を出たらそこでこれを広げることはできないだろう。難しい道順ではない。紙をここに残すわけにはいかない。握り締めたそれをパンツのポケットに突っ込んだ。
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