洋上賃貸の居住者

 シドーの運転する乗用車で移動した先はダミアンの住まいとなる洋上賃貸である。ヒバルの所有する不動産であり、シドーが管理している。


 港町ベルティナは湾に面したこじんまりとした港町だ。ダミアンの洋上賃貸はベルティナの中心からやや外れた海沿いに建築されている。思ったよりも物件が海の中に足を根付かせていることに驚いたが、木材でできているように見える戸口への道はずいぶんがっしり造られていて、大人三人が靴を鳴らして歩いても揺れることも軋むこともなかった。


 その建物は高さの違う円筒を三つ立てたような見た目をしている。それぞれの円筒に三角の屋根をつけた、子供の積み木で表現したような建築物だった。


 モスグリーンよりもやや明るいくらいの緑色で表面の木材が色付けされているが、これは防水塗料による着色とのことだ。耐食性の金属を骨組みに使用しており、それを覆うようにして別の補強素材で固め、さらにその上に木材を張り合わせて防水塗料を塗布したものだという。


「なんだか、とても努力を感じる建築ですね」


 ダミアンは前を歩くヒバルに言葉を投げかけた。ヒバルはちら、とダミアンを見やり、それから施錠された玄関口を開けた。夕方でもないのにセピア色をした陽の光が訪問者を照らしている。


「海賊と怪獣を監視するために作られたものですからね。ここだけでなく他にも三棟あります。実は結構人気の物件ですよ」


 言って、ヒバルはダミアンを中に促した。海に怪獣などいない、という議論は無意味だ。ここに専門家はいないし、何を言い合っても実りのない議論でしかない。ダミアンは一旦、言いたい言葉を頭の中の記憶に留めておくことにした。小説家として、ネタのタネにはなるかもしれない。


 カタン、と静かに戸がしまった。シドーはそこに無言で腕を組んで佇んでいる。ニコリともしない、無愛想な管理人である。


「間取りは先ほどお渡しした図面の通りです。あとでご自由に探索なさってください。私はこの後があるので、手短に緊急時の設備をご案内いたします」


 ヒバルはそう言って幾つかの設備を紹介していった。


 緊急避難用のボートと救命胴衣。照明信号弾と緊急時に使えるラジオ兼無線機。食料と飲料も一人用三日分。万が一のためのドキュメントケースは防水仕様だ。日常生活における最大の危険要素は火気であるため、消化器の備えもある。できれば使いたくない消防斧とショットガン……。


 ダミアンの脳内に思い出したくない記憶がフラッシュバックした。首を振ってすぐさま現実に戻ってくる。


 この建築を住居として使うためにガスと水道、電気は通っている。また、冷蔵庫や通信設備、照明やデスクなど日常に最低限必要な家具家電は揃えてあった。これもあのサンダースの差金なのだろうが、その部分についてヒバルは何も言わなかった。


「草木がないので虫は来ません。代わりにカニや貝類が這い上がってきたり、風に飛ばされてきた海藻が張り付くことがあります。飼うのも食うのもご自由になさってください。

 天候が悪い時には必ず施錠を。それから、近場に避雷針がありますが、できるだけ屋内で過ごすようにしてください」


「私の仕事は屋内で進めるので、日々のほとんどを屋内で過ごしますよ」


「そうでしたね。ですがここで暮らすにあたり、お願いしたいことがあります」


 それは海賊と怪獣の監視。そしてこの住まいのチェックだ。


 また海の怪獣かとダミアンは眉をしかめたが、海賊についてはその存在と危険性を報道で見たことがある。同列に警戒していいものかどうかは別にしても、日々警戒しておくに越したことはないだろう。


 住まいのチェックというのは、海っぱたにあるこの家屋の状況を見ることだ。チェックリストがあり、雨漏りや水漏れなどの他に塗装の剥がれや建築に使われた木材の欠落、漏電やガス漏れの確認などもある。

 運動不足と気分転換くらいにはなるかもしれないが、つまらないルーティンでもある。


「こちらが合鍵です。この瞬間から持ち主はラムラスさんです。何かありましたらいつでもご連絡を」


 リョースケ・ヒバル。ナオミチ・シドー。名刺にはそう書かれていた。


 そこからの十五日間は、ベスティナご自慢の海のように穏やかな日が繰り返された。連絡手段を限定する必要もなかった。一応の仕事相手であるサンダースは厄介払いをして満足したのか、あれから全く連絡を寄越さなかった。ダミアンがここに来たのはサンダースの企画のためだったが、どうやらその企みは見事完遂したようだ。


 つまり彼女はダミアンを追放するためだけにこのようなことをしたのだ。ダミアンを売り込んだことで十分な金を得ている。今頃は新しい金づるを愛でている事だろう。出涸らしになったダミアン本人は無職になったも同然ということだ。


 最初の五日間は、それでも仕事と生活環境を整えるために蓄えを使ったが、流石に七日目にもなると虚無感に襲われてしまって何もできなくなってしまった。かつてダミアンを小説家として成り上がらせた商業都市バスティドニアの喧騒がもう、数十年前のように感じられた。


『このままではよくないとは思いつつも』


 パタパタとキーボードを叩く。仕事のために取り寄せたコンピューターも、その性能を持て余して呆れたようにダミアンを見つめているように感じられた。どんなに性能が良かろうと、それを使う者が腐っているなら埃をかぶるのもそう遠くない未来だろう。


『私は今日もまた自堕落な夜を過ごし、朝を迎えようとしている』


 世界を切り取ったかのような静寂。特に意味もなく昼夜が逆転してしまい、ダミアンは朝日を見てから眠るような生活を送っていた。ヒバルもシドーも、別に世話役でもなければ仕事相手でもない。壊れかかった世界の端に捨てられたような錯覚を覚えながら見る朝日だけが生き甲斐になっていた。


『人間ほどしつこい生き物もないはずだが、私は随分と消極的だ。誰かに会いたいとも思わないのに、どうしてかこの声を聞いてほしいと考えている』


 タイプした文字が他人事のように浮かんだ。職業病だった。思いついた言葉を、とにかく退屈そうなコンピューターに代弁させている。


 その日は月のない暗い夜だった。ヒバルから鍵を預かって十六日目のことだ。いつもよりもずっと早く窓を開けて、色味の違う黒の紙を重ねたような空と海を見ていた。囁くような波の音だけがダミアンの言葉に相槌を打っていた。


「ここに落ちれば少しは変わるだろうか」


 言って、ふっと笑ってしまった。学生の時分にも同じことを考えたことがある。結局できずに今に至っている。あれから何が変わったというのだろう。


 世界情勢は相変わらず不安定だ。なんとなく気分が悪くなるのでダミアンは見ないようにしている。もっぱら、ベルティナの天気予報や旬の食材、運び込まれた異郷の雑貨や書籍情報を眺めているばかりだ。


 ある意味で幸せだ。ある意味で死んでいる。

「いつまで経っても、僕は何も変わらない」


 実際、海賊なんて物騒なものは見かけていない。実は密かに接近していたとしたら、知らぬ間に襲われ命を奪われることだろう。


 それこそ望ましい最期だとすら願っている。怪しい獣などに脅かされることもなく、それらに抵抗する武力を持つ者やそれを顎で指図するような者が有無を言わさず上級人民と評される時代だ。


 何も持たないダミアンはまさに最下級人民と言えるだろう。

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