一章『潮の匂いが届かない』 その二十

「この人、他の店の子にも手を出して出禁になったんですよ」

「へぇ?」

「いやあれはね、結果としてそうなっただけで、結構複雑な経緯があったんだよ。キャバ嬢だって後で知ったからさ……大体、一度も行ったことないんだぞあの店。一回もないのに出禁ってどういうことだ。あれ、今思うと私割と被害者寄りか?」

 一体なんの話をしているのかという私の疑問の目に、星さんが答えた。

「ああ、私は女が好きなんだよ。ごくありふれた嗜好だね」

 星さんがそんなことを特に隠しもしないで明かしてきた。不思議と、意外とも思わない。

 なんでだろう。まるでなにか知っていて、慣れているみたいに、受け入れられた。

「だからキャバクラ来てんだよね、分かりやすいねー」

「薄々感じていましたけど、そういう……」

「先生はその辺、抵抗ないの?」

「さぁ……考えたことも……あ、戸川さん! 戸川さんにまさか、手を……じゃなくて、不純な、こう」

「凛は私の趣味じゃないから、手なんか出さないって」

 ないない、と星さんが手を横に振る。

「凛は制服のままふらふら出歩いてたときにちょっと声かけて、面倒見ただけ。なんか不用心な感じだったからさ」

「そう、ですか……ありがとうございます」

「なんで先生が礼言うのさ」

「先生だからです」

 そう返すと、星さんは「いい先生だねぇ」と揶揄するように笑うのだった。

 しかし戸川さんを見て趣味じゃないって、どれだけ要求するものが高いのか。

「戸川さん、こんなことを私が言うのもなんですけど、可愛い子だと思いますけど」

「んー、まぁ大分美人だよね。美人っていうか、そう、先生の言うとおり可愛い系。大型犬っぽい雰囲気。でもあいつは駄目、背が高い」

「背……?」

 そういえばさっき欲望丸出しの発言をしていた、と繋がる。

「小さい子じゃないと駄目な女なんです、これは」

「あのさ、すんごい人聞き悪い言い方を選んでるだろ。背の低い子が好きなだけよ私」

「でも背が低い子ってなると必然、年下の子になりがちじゃない?」

「まーそこはね! 多少はね!」

 触れられると危うい部分を大声と勢いでごまかしにかかってきた。段々と、星さんを見る目が細まってくるのを感じる。そして気づいたけど、来てくれているキャバ嬢の女性は背が高くて、なるほど、と人選に納得いった。

 こほんと咳払いした後、星さんが舐めるように言った。

「背が低くておっぱい大きい子が最高」

 今度は堂々と言った。

「こんな欲望にまみれた人なかなかいないですよね」

「えー、あー……まぁ、好みというのは人それぞれ、と言いますか……」

 なかなか、迂闊には言及しづらい話題だった。

「先生はどんな子が好みなのさ。さっきも聞いたか、まいいや」

 矛先が私に移って、どんどん情景が掠れていく。

「いやあの、子と言われても……私、結婚してますよ?」

 結婚指輪を見せたら、「あ、そう」と軽く流されてしまった。

「で、どんな凛が好きなの」

「なんで戸川さん限定なんですか」

「そりゃお前、なぁ?」

 星さんがキャバ嬢を突っつく。「凛ちゃんね」とキャバ嬢が笑っている。

「戸川さんのこと、知っているんですか?」

「ええ。来店したことあるし」

「はぁ!?」

「そこの人が連れてきました」

 やーいやーいとキャバ嬢が告げ口してくる。指差した先には、小さい女の子が好きな金髪のおねえちゃんがいた。

「星さん、あなた」

「のっはっは」

「なに考えてるんですか!」

「先生、周りのお客さんの迷惑になるから怒鳴らないで」

 鼻息荒く睨むと、星さんがまた「のっはっは」と肩を揺する。なんだそのムカッとくる笑い方。怒りのあまり、怒鳴るのを防ぐためにグラスを傾けて口を塞ぐ。

「凛が来たいって言うから連れてきたんだ。あいつの母親が、この辺大体知り合いだからね」

「戸川さんのお母さん……」

 戸川さんは少しでも、近くに行ってみたかったのだろうか。

「行きたーいって言うからじゃあ、いっかなって!」

「よくないよ」

「凛ちゃん、楽しんで帰っていきましたよ。座った子がフルーツ食べたいっておねだりするのを横のやつが駄目だ八百屋に行け! 今からデートしようよ八百屋に! ってうるさいのを見て笑ってました」

「酷い客だな出禁にしろよ」

「なんでされないんだろうね」

「ちなみに年齢がまずいから凛はニ十歳ってことにした」

「ニ十歳の戸川さん……」

 なぜ喉を鳴らしたのだろう。

「まぁ、制服思いっきり着てたんだけどね」

「なんで止めないんですか!」

 怒鳴って喉が渇いたので、丁度手元にあったグラスで潤す。喉越しがよかった。

「ニ十歳がセーラー服着ちゃ駄目なんか?」

「通るわけないでしょそんなの!」

 ごくごくごくごごごくく。

「はーまぁ、ゆっくり聞こうじゃないかその辺。なぁキャバ嬢、時間は延長しないからな」

「ちょっと、なにお酒足してるの」

「空だとグラス食っちゃいそうな勢いがあるから……おいしくなさそうかなって……」

「なんの気遣いなんだか……目が回ってるけど、お酒取り上げた方がよくない?」

「勝負はこれからだろ」

「なんの!?」

 明瞭に声が聞こえたのは、そのあたりまでだった。



 キャバクラだ。そう、結局キャバクラに同伴して、星さんと話して、キャバ嬢はプロで……でもそこから、お酒が届いた頃から記憶が飛んでいた。

「うち、お母さんもいないからせんせぇを預けるならここがいいかなって」

 戸川さんがカーテンを開けると、私の罪を咎めるような日差しが目に入り込んできた。カーテンの動きに合わせて浮いた微かな埃が、輝きの中で演舞している。目の奥に鈍い痛みを感じながら、梅雨明けの到来を遠くに予感させる爽やかな朝と向き合う。

 顔を上げて、歯の間からはみ出る息が、めっちゃくちゃ、お酒臭い。

 それが昨夜の私を物語っていた。

「前後不覚になるほど飲んで、そのまま、ここへ……?」

「せんせ、うちに来たとき学校と勘違いしてたよ」

 思い出したように笑う戸川さんに、肘から先が震える。

「あの、私は……担任で……」

「知ってるよ?」

 急にどうしたという顔をされているけど、訪れた衝撃から順序立てて話すことができない。

「先生でね、規律がね、模範的であって、教え子の家に、酔っぱらって……こう、ごみくず?」

 仮にも教師が酒に溺れて教え子の家で世話になるなど言語道断、と言いたかった。

「ゴミクズなんじゃないかな、私」

 声は裏返るほど明るかった。目がぐるぐる回っているのが眼球の痛みから伝わってくる。

 あひ、うひ、と現状を把握していくにつれて奇怪な笑い声が漏れる。漏らすしかなかった。

「ままま、もうちょっとお茶飲んで」

 戸川さんに肩を抱かれて優しく介護される。生徒に。教え子に。呻きながら、握りしめていたお茶を勢いよく飲む。酒浸りの身体に水分が行き渡っていくのを感じた。

 目は変わらず回り続けている。

 ていうか、朝……朝だ。一日は始まっている。夫になんの連絡もなく外泊してしまった。いや夫からの連絡は? あったのか? あっても返信できているのか? 心配して警察に連絡していない? どう? 不安と後悔と罪悪感と後ろめたさが徒党を組んで心に砦を作る。

 光と重なるように笑う戸川さんにも、様々な後ろ向きな感情が浮かんでは弾けていく。

 いくら同性でも、教え子の家でも、人のベッドで寝てしまった。

 いやなんにもない……なんてことない……はず、なのに。

 戸川さんを見てひどく落ち着かない気持ちになるのは、なにが悪さをしているのだろう。

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