一章『潮の匂いが届かない』 その六

「あれ、今気づいた。せんせぇ、結婚してるんだね」

「え、ああそうね」

 左手の薬指を見て気づいたらしい。掲げて見せると、「へぇー」と戸川さんが目を細める。

「子供は何人?」

 そんなに子沢山の家庭を持っている歳に見えるのだろうか。

「んー、まだね」

「ふぅん」

 取りあえず聞いてみただけといった反応だった。

「んー……」

 そして戸川さんはなぜか、首を傾げるのだった。こちらもその反応に小首を傾げそうになる。

 不思議そうな目で見られても、口ほどにものは言ってくれない。

 やや据わりが悪くなりながらお弁当箱の包みを開く。蓋を開けると、戸川さんが前のめりで覗いてくる。でも中身を確認したら、すんっと落ち着いて引き返していった。

「野菜多い」

「戸川さんは苦手?」

「人並みに野菜嫌い」

 人間って野菜嫌いだったんだ……知らなかった。

「いただきます」

 戸川さんと一緒に手を合わせる。……手の指も長いんだな、となんとなく見つめてしまう。本人同様にすらりと伸びた指は、儚く感じるほどに真っ白い。それこそ触れたら輪郭が溶けそうなくらいに思えた。爪先も綺麗に整い、彩られている。ネイルは一応注意しないといけない立場なのだけど、薄い色合いで抑えてあるので気づかなかったことにした。

 その繊細な指が封を開けて、どら焼きを掴む。一口分にちぎっては口に運び、小さな口を細かく動かしている。おいしいよと言っていた割に、頬張る様子に必要以上の笑顔はなかった。

 廊下の奥までは教室の喧騒も遠い。外からの物音は弱く、粛々とした空気になる。戸川さんも食事中は喋らない方らしく、正面の私を見ながら無言なので、若干気まずい。そして昼食は本当にどら焼き二個でお終いらしく、早々に食べ終えて手持無沙汰になっていた。

 生徒を座らせてその前で私だけ箸を動かしていると、喉の通りが悪い。コップに手を伸ばしかけて、今日はそれを戸川さんが使っていることを思い出して引っ込める。

「せんせぇのお茶は?」

 動きを目で追って、戸川さんに質問される。

「コップが二つないの」

「お茶そのまま飲めばよくない?」

「…………あ」

 言われてようやく気づいた。それでいいんだ、別に。コップなくても飲めるんだ。

「戸川さん賢い」

「あはは、せんせは意外と……」

「バカ?」

「ううん、ぼーっとしてるね」

 言い方を変えただけな気がした。飲みかけのお茶を取ってきて、ペットボトルを傾けて文明の進歩を味わう。家だと当たり前にコップがあるし、学校で人と食事をする機会もなく、その当たり前の発想が綺麗に抜け落ちていた。本人は何事もない日常の中だと思っていても、思考は偏るのかもしれない。

「お昼食べたしさぁ帰るか」

「こらこら」

 冗談、と立ち上がりかけた戸川さんが笑って座り直す。

「せんせぇから怖い生徒指導があるんでしょ?」

「まったく怖がってる素振りが見えないけど」

 昨日の夜といい、戸川さんに舐められている気がする。私が子供の頃は先生というだけで圧や壁を感じていたものだけど、威厳が足りていないらしい。ないよな、と自分でも思う。私、怒らないし。

 怒り方がすぐに思い出せないくらい、近年の私は感情の迸りと無縁だった。よく言えば穏やかで、悪く言えば……色んな言葉が思い浮かぶけど、無関心が適切なのかもしれない。

 でもその無関心の例外みたいに、私は戸川さんを見て見ぬふりができなかった。

 だから今、こうして向き合っている。

「それじゃあ真面目なことを聞くから、ちゃんと答えてね?」

 お弁当箱を一旦置くか迷ったけれど、昼休みがそこまで長いわけでもないので行儀悪く、食べながら進めることにした。戸川さんもまったく気にする様子はなく、へらーっとしている。

「真面目な話かぁ……せんせの不真面目な話は興味あるかも」

 言われて、不真面目、と二秒考えてみたけどなにも思いつかなかった。

「夜間外出のことなんだけど」

「本当に真面目そうだなー」

 難色を示す戸川さんの困り顔に、少し新鮮なものを感じた。

「夜に出歩く目的はあるの?」

「目的……あるといえば、あるのかなぁ」

 戸川さんが少し考えこむように目を泳がせる。

「あるんだ」

「うん、暇つぶし」

 からかっているわけでもなさそうだった。

「そういうのは、ないって答えていいと思う」

「じゃあないです」

 軽薄に訂正してくる。

「ないんだ……」

「うん」

「暇なら、家で勉強とか……」

「せんせって、暇つぶしに勉強する女子高生だったの?」

 あどけない瞳で痛いところをついてくる。

「してませんでした」

 自分の無理を人に勧めるのは説得力に欠けると言わざるを得ない。振り返ってみると、私は高校時代なにをしていたんだ? 夫と出会い、交際が始まったのは大学に通ってからなので、その前……その前? まだ霞がかるほど遠くもないはずなのに、高校生の自分がはっきりと思い出せない。たかだか十年前なのに。……結構遠くない? いや、遠い、遠いけど……意図的に暗雲が覆っているように、過去を覗きづらい。断片的な出来事は記憶にあるのに、その側にいた自分が上手く形作れなかった。

「せんせぇ?」

 俯いて黙り込んだ私を、戸川さんが無防備なほど近くで覗き込んできた。お互いの前髪が触れ合いそうな距離で、慌てて身を引く。逃げる私を追うように化粧の匂いが鼻に入り込んできた。

「なにを言ったものかと悩んでいたの。用もなく深夜徘徊となると……」

「夜に出歩く用がある方が、せんせぇとしては困らない?」

「……それはそう」

 一理あった。明確な意図を持って夜の町に消えていたら、こんな穏やかに指導していられない。私の一存では処遇を決められなくなってしまうのだ。

「せんせが想像してるような、やらしーことはしてないよ。本当に散歩みたいなもの」

「別に想像してません」

「夜に歩く方が日に焼けないし」

 自身の長い髪を摘みながら、人の否定を無視して夜の散歩の利点を語る。確かに、戸川さんのきめ細かな肌を維持するのは大事かもしれない。でも少し日に焼けた戸川さんも、それはそれで健康的に映えると思う。そこまで考えて、なにを言っているのだろうと我に返った。

「そんな出歩いていて、戸川さんのご両親、は」

 触れづらい部分なこともあって、やや歯切れ悪い質問になってしまう。

「とりあえず、家にはいないよ」

 戸川さんも態度こそ変わりないけど、返事は曖昧なものが混じっていた。柔い表情の中にも、触れてほしくないという拒絶が滲んでいた。でもそこに踏み込まないと、話の発展が難しい。

 悩む。進みかけて、逡巡して、一歩下がって。

 つかず離れずが、教師と教え子の限界な気がした。

「用もなく、夜に出歩くのはやめなさい。危ないから」

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