一章『潮の匂いが届かない』 その五

 教材を引換券のように机に置いてから、お弁当箱の包みを取る。すぐに職員室を後にして、教室に向かった。お弁当を持って校内を歩いていると学生の頃を思い出す。

 高校二年の時、仲の良かった友達のほとんどが別クラスに別れてしまって会いに行ったり、こっちに来てくれたりした。自分で言うのもなんだけど友達は割と多かった方で、だけど今となっては連絡を取っている相手もいない。地元に残っている者もいるはずだけど、不思議と普段、町ですれ違うこともない。お互いに群衆の中で相手を見つける意思が希薄なせいかもしれない。その人を見つけたい、その人に出会いたい。そういう気持ちを強く持っていれば、距離を置いてたまたま目が合ったとき、気づく確率が上がる。

 出会いや別れが偶然だとしても、人の意思は無意味ではないのかもしれなかった。

 そんなことを考えながら教室を覗く。既にお昼ご飯を広げている生徒たちの話し声で室内の空気がぱんぱんに膨らんでいた。色んな食べ物の匂いが混ざって、五感が賑わう。

 お目当ての女生徒は自分の席で、友人たちに囲まれて笑っていた。隣に座る女子と比べると頭の高さが違って存在感が強い。戸川さんの席は教室中央からやや後ろで、入口からはそこまで距離はない。

「とがわさーん……」

 教室の入口から小さく手招きする。戸川さんは談笑の中、すぐにこちらに気づいてくれた。話を打ち切るように立ち上がって、周りに向けて笑顔を向ける。

「呼び出し食らっちゃった」

「とうとうバレたかー?」

 戸川さんが友人たちに冗談を残して、教室の外に出てくる。私に向けて軽快に近寄ってくる様は、どことなく大型犬が懐いてくるような仕草だった。そして手ぶら。

「なんであんな控えめに呼んだの?」

「話の弾んでる生徒たちの間には入りづらくて」

 自身が生徒だった頃を思えば、友達と盛り上がっているところに教師が割って入ってきたら邪魔でしかない。教室での青春に教師は不要だった、少なくとも私にとっては。

「昼ご飯、今から買ってくるの?」

「わたしの昼ご飯はこちら」

 戸川さんがひっくり返した手の内を見せてくる。小ぶりの茶色いお菓子が隠れていた。

「りんごどら焼き。おいしいのでおすすめ」

「……それだけ?」

「二個あるよ」

 左手にも持っているのを見せびらかしてきた。それだけの意味が少し空振る。

「お腹空かない?」

「空いたらまたなにか、てきとーに食べるよ」

 食生活の無関心さが窺える返答で、でも私より大きいんだよなぁと頭頂部を見上げる。

 向き合ってもそうだけど、横に並んでも背丈の差を意識する。でも横顔にはまだ十代の輝くあどけなさがある。その少々アンバランスな部分が魅力を高めている、気がした。

 生徒の横顔をまじまじ見上げて、魅力を感じてどうするというのだ、私は。

「バレたかって、戸川さんのことみんな知ってるの?」

「え? わたしなにかやったの?」

 我がことながら初めて存じ上げましたとばかりの反応だった。

「夜の町を出歩いてること」

「あー……言ってないけど、隠してもないしみんな知ってるのかも?」

 教師の前でも言い逃れや申し開きは一切なく、あっけらかんとしたものだった。

「感心しませんね」

「せんせぇはもっと叱った方がいいんじゃない?」

 あなたね、と呆れながら見上げても笑っているものだから、意欲が萎んでいく。

 甘いお菓子を頬張りながら人を怒ることが難しいように、戸川さんの笑顔には甘さが含まれているのかもしれない。あと、呼び方。せんせぇとしか受け取れないその声が、くすぐったい。

「それで、デート先はどこ?」

「デートじゃありません」

 これも生徒指導の一環なのだ、多分。

 戸川さんを連れて階段を上がり、三階の廊下の奥へ向かう。

「教科準備室?」

 こんなとこあったんだ、と戸川さんが表札を見上げる。生徒からすると、まったく縁のない場所であるのは間違いない。それに戸川さんからすれば、上級生のクラスの階だ。

「授業の資料を保管している場所なんだけど、今はあまり利用されていないの」

 だから私としては助かっている。放課後に作業をするときは大抵、この部屋を利用していた。私以外誰も来ないのをいいことに、ちょこちょこと持ち込んでいるものもある。コーヒーメーカーも、急須も湯沸かし器も私物だ。小型の冷蔵庫と古めかしい羽根の扇風機は元からあったもので、まだ現役でやれるという気概を感じている。

 準備室には机が二つ並んでいて、作業に使う右側は整頓されているけれど、隣はプリント類や資料を乱雑に置いている。その席の背中側にロッカーと棚が置かれて、今は使われていないような古い教材が揃えられていた。部屋の隅には簡素な仕切りがあり、その向こうには小さなホワイトボードと恐らくは会議か打ち合わせ用の机や椅子が用意されている。ホワイトボードを埋めるように貼られたメモ類が、昔は使っていたのであろう痕跡となっている。

 奥にある窓は私が時折拭いているので、目立った汚れもなく空を映していた。

 普段使っていない方の椅子を戸川さんに用意して、着席を促す。戸川さんは物珍しそうに室内を見回しながら、足を伸ばすようにして座った。……足、細いな、と思った。

 じろじろ見ないように視線を切って、いつもの椅子に腰かける。

「あ、せんせはお弁当なんだ」

「おかずは常備菜を詰めただけの手抜き。それで……そう、お茶」

 お茶を入れるためにまたすぐ立ち上がる。

「サービスいいね」

「私から呼び出したんだもの」

 言いながら、コップ二人分あったかなとそこに気づく。もちろんそんな用意はなかった。少し考えて、戸川さんのお茶だけでいいかと入れることにした。

「戸川さんは熱いのと冷たいの、どっちがいい?」

「お冷やお願いしまーす」

 はい、と屈んで冷蔵庫を開ける。これから暑くなってくるので、お茶をもう少し冷蔵庫に追加してもいいかもしれない。ペットボトルの麦茶を、いつも私が使っているコップに注ぐ。

「せんせぇと二人で昼ご飯とか、男子が聞いたら羨ましがるね」

「そう?」

「せんせ、結構人気あるんだよ」

 にこにこしながら言われてしまう。なんというか、まったく察しないというほどかわい子ぶるつもりはないけれど、直接言われると反応に困る。そして戸川さんは全然困らないで続ける。

「他と比べたらせんせぇ若いし、美人だし」

「比べないの。褒め言葉を素直に受け取れなくなるから」

 ここで表立って喜べる立場ではなかった。仮にも皆同僚なのだ。付き合いが深いかと言われると怪しく、表面的な友好に留まっているけれど、だからこそ謙遜するべきだろう。

「ま、比べなくてもせんせは美人だよね」

「ありがと」

 お茶を渡すお駄賃代わりに褒められる。コップを受け取った戸川さんが、私の指に注目する。

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