一章『潮の匂いが届かない』 その七

 色々模索しても結局、そうやって直接的に注意するほかなかった。

 戸川さんが少し目を細めて、皮肉るように口元を曲げる。

「せんせの受け持ちの生徒が問題起こすと困るから?」

「そういうことを言ってるわけじゃないの」

 背中から針が飛び出すような、勢いと反発が自分から湧き出た。

 かぁっと、肌が火照る。

 その感覚が、ずっと、ずぅっと底から。大地を割るように、這い出てきた。

 これは、なんだったか。

 戸川さんが目を丸くして、固まったような肩が後退する。

 私も、そんな角張った声が出ると思わなかったので内心、焦っていた。

「ただ、戸川さんが心配だから。伝わらないかもしれないけど」

「ううん、ごめん。せんせのこと信じるよ」

 戸川さんは、言葉に留まらない。私の手に、その手を重ねてきた。

 前屈みの戸川さんとまた、髪が触れ合いそうになる。

「ごめんね」

 私より大きい戸川さんが身を縮めて、私の目を覗き込んでくる。

「いや、あのね、そんなに謝らなくてもいいのだけど……」

 触れたら溶けそうな戸川さんの指は、ちゃんと私の手の甲に乗ったままだった。

「戸川さんが、変な人に絡まれたり、危ない目に遭ったり……そういうのが」

 嫌で。

「……心配で」

 本心と言葉選びが喧嘩した。睫毛が震えそうなのは一体どんな感情の発露なのか。

「自分を大事にしてほしい」

「……ん」

 私の選んだ無難な言葉を受けて、戸川さんが身を引いて座り直す。

 そうして、胸元に手を添える。心臓を押さえるように。

「びっくりした」

 なにが? と問う間もなく。

「せんせって、怒るの見たことなかったから」

 指摘されて、え、とこっちが驚く。

 怒る?

 私が。今の感覚は、怒り? 怒るって、こういうことだった?

 なにかが許せないという強い気持ち。

 自分の気持ちが歪むことなく伝わってほしいという願い。

 いつからか途切れていたように、失われていた心の一部。

 こんなのだったかな、え、怒ったのかな、と戸惑う。

「怒ってないから……うん、多分」

 自分でも自信がない。俯いて、お弁当の残りをもぐもぐして口が塞がっていることを言い訳にして黙る。すぐには換気できない、変な空気が生まれてしまう。私が意識しすぎているだけかもしれない。戸川さんの方はぼーっと、机の資料や教材を眺めていた。

 急き立てられるように食べ終えて、弁当箱に蓋をする。全体を通して、他のことに気を取られて味わいが口に残っていなかった。こちらが食べ終わるのを見計らったように、戸川さんが立ち上がる。

「せんせ、昼休みまだあるよ」

「そうね……あ、話は終わったから、もう教室に戻っても……」

 言いかけている最中に、戸川さんがにかっと歯を見せる。

「いいものあるなーと、さっきから思ってたんだよね」

 戸川さんが机の上に手を伸ばす。その先にあるのはゴムボールだった。手のひらで包めるくらいの大きさで、ピンク色にサッカーボールを模したような黒い模様が入っている。これは私が持ち込んだのではなく、元からこの部屋にあったものだ。

 それを掴んだ戸川さんが、ぐにぐにと感触を確かめるように指を動かして、こちらを向く。

「せんせ、キャッチボールしよ」

「……キャッチボール?」

 うん、と戸川さんがボールを見せつけるようにこっちへ近づけてきた。

「私と戸川さんが?」

「他に誰がいるの」

 さぁ行こうと、戸川さんが私の肘を掴んで引き上げてくる。あらちょっと、と戸惑っている間に立ち上がり、そのまま戸川さんに引っ張られるような形で教科準備室を出る。鍵もかけないであれよあれよと階段を下りたり靴を履いたりした結果、本当にグラウンドへ連れていかれてしまった。

 気高いほど高々と輝く太陽の下、運動場に出るのも久しぶりかもしれない。スーツなんだけど大丈夫だろうかと肩を摘みながら、距離を取るために走っていく戸川さんを見送る。待っている間に校舎を振り返ると、窓際の生徒たちと目が合った気がした。

「せんせぇ、行くよー」

 戸川さんが童幼の如く、大きく手を振って合図してくる。

「かるーくね、かるーいの」

 本当にやるんだ、と日差しに髪を焼かれながら変な笑いが漏れた。

 球遊びなんて、いつ以来だろう。中学のときは文化部だったし、小学校ではドッジボールに参加するような子供ではなくて……あれ? もしかして、未経験? いや高校の体力測定で投げた……はず。それから、もう記憶にないほどの昔に……きっと、両親とやったのだろう。

 放り投げられた緩いボールを、掬うように両手で掴む。空気も抜け気味のボールなので受け止める痛みはほぼない。まずは捕れたことに安堵する。

 ボールは私でも片手で掴めるサイズと柔らかさだ。

 投げ返す、と考えると慣れない動きなのでこんなことでやや緊張する。

 グラウンドには昼休みなので当然だけど、私たち以外に誰もいなかった。

 太陽が二つあるように、戸川さんの笑顔も遠くに眩しい。

「せんせぇが遊んでくれるなら、わたし、退屈しないかも!」

「えー……そう来る?」

 戸川さんにボールを投げ返す。投げ方のぎこちなさが酷い。スーツというのもあるけど肘が服に制限されて伸びきらず、危うくボールを地面に叩きつけそうになった。指先の引っかかったボールが、戸川さんとは別方向に飛んでいく。戸川さんはそのあらぬ方向に落ちたボールを走って拾い上げた。材質の関係か、土の上ではボールもあまり転がらないようだった。

「私、球技の経験ないからー」

 言い訳すると、戸川さんが笑ったまま、またこちらに放り返してくる。戸川さんのそれは緩い軌道ながら、私の立っている場所へ正確に投げてくる。明らかに慣れていた。

「部活動かなにかでやってるの?」

「わたし美術部の幽霊部員だよ」

 予想が外れた。手を蝶の羽ばたきのように開いて、ボールを催促してくる。

 今度は肘の動かしづらさも考慮して、肩の動きを大きめにするのを意識した。さっきよりはスムーズにボールを投げられたけれど、大振りで、またボールを地面にぶつけそうになった。今度は離すのが遅かったらしい。ただ物を投げるだけでも加減が難しいことを知る。

 私のボールはちっとも戸川さんに届かないけれど、彼女は楽しそうにそれを追うのだった。

 そうやって、短い時間だけどボールの行き来で交流を図った。

 ボール遊び自体に楽しいという実感はない。だけど戸川さんの楽しげな様子に、時折、頬が緩むのを感じた。

 校舎の壁に設置された大きな時計を指差して、時間を告げる。戸川さんは投げかけたそれを止めて、時計を見上げて、残念そうに目を瞑って笑った。それから、こっちに走ってくる。

「久しぶりだけど、ボールが返ってくるって楽しいね」

 ご機嫌な様子でボールを持ってくる様は、失礼な発想だけど、ちょっと犬っぽい。戸川さんは所々でそういう人懐っこさを向けて、私の心に迫ってくる。

「今日は時間なかったから、次はもっと早めにやろ」

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