一章『潮の匂いが届かない』 その八
「次……」
私の反芻に、戸川さんがニコニコする。
「遊んでくれたから、ちゃんとまっすぐ家に帰るよ」
「……なしでも、まっすぐ帰ってほしいんだけどね」
私の言い分を笑って流して、戸川さんが駆けていく。まだまだ元気が溢れていて、その若さはいいのだけど遠慮なく走って足を動かすものだから、スカートの奥の太ももが見えて、見えてしまうのだった。
「…………………………………」
なにを固まっているんだ、と頭を振る。
運動場に一人きりで突っ立って、狐にでも化かされたような気分だった。
でもやっぱり、そういうことなんだ。つまり戸川凛を夜の町に繰り出させたくなかったら、これからも付き合えということだろうか。やっていることは、確かにあまりに健全だけど。
目立つのでは、と校舎を見上げる。女子生徒と教師がお昼休みにキャッチボールなんて。
「うーん……」
ボールをにぎにぎしながら思いを巡らせる。でも考える時間も残っていないので、足早に校舎へ戻ることにした。お弁当箱を回収して、午後からの授業に備えないといけない。
引き返す間も、戸川さんの躍動する姿と感情が目に焼き付いているように、離れなかった。
職員室に戻って、席に着くと隣の席に座っている日本史担当の同僚が、早速とばかりに聞いてきた。
「さっきのあれ、なに? レクリエーション?」
私よりやや年上の中年女性で、教師としては先輩に当たる。
職員室からも見えていたらしい。
「見てのとおりです」
「キャッチボーゥ?」
なぜか発音が無駄に凝っていた。
「あれも生徒指導の一環……なんでしょうか」
思わず首を傾げて、質問に尋ね返してしまう。自分にも分からないのだ、あの時間の意味が。
「でもああいうのいいね!」
「そーですね」
この先生は大体のことにいいねと肯定的なので、ありがたみは薄い。
簡単な運動でも陽気と合わされば汗ばむ。ハンカチで髪の生え際を拭いながら、教室に向かう前に化粧が崩れていないかを確認する予定を立てる。妙なことになった、という感触はあるけれど戸川さんを放っておくわけにもいかない。生徒の問題が解決するのなら勤務中の昼休みくらい捧げてもいいだろう、戸川さんが本当に言ったとおりにするなら。
……いや、する。戸川さんはそこで嘘をつく子じゃない、と信じることにした。
根拠は別にない。人柄に精通しているわけでもなく。
でもあの子の笑顔に人を騙す意図があるとは、なんとなく、思いたくなかった。
なにもしないというのが最適になることもある。たとえば、休日。
夫と散歩を終えた昼下がり、ソファーに座り込んでぼんやりと画面を眺めるときの、まろやかな怠惰に深く浸かる。夫が遊ぶゲーム画面を後ろから見ている構図だった。
夫はここ一年くらい、同じゲームを飽きもしないで楽しんでいる。ゲームと縁遠い私でも知っているタイトルで建築をコツコツと進めるのが週末の生きがいのようだった。
「僕らのアパートが完成したら次はなに作ろうかな」
外の植え込みを整備しながら、夫はそろそろ次の建築物に思いを巡らせている。夫がその前に完成させたのは、表通りの大きな門と狛犬だった。散歩中にそれを見て作ってみようと思い立ったのがゲーム購入の動機で、以来、休日を建築物の制作に捧げている。
夫が完成させた狛犬二匹は贔屓目抜きに評価すると、大きすぎた。顔を再現するために苦労した結果、後ろの朱塗りの門より巨大になってしまった。そのスケール以外はなかなか上手くできていると思う。私はこういう立体物への感覚が皆無なので、絶対に作れないだろう。
左右にうろうろするゲーム画面を眺めていると酔いそうだったので、目を窓の方へ向ける。窓の外はゲーム内と同じ晴天で、心なしか雲の形も似ていた。穏やかで、欠けることのない日。
夫と過ごす時間は、多くの場合安定していた。
「きみはゲームとか本当にやらないよねー」
「私、そういうアクションとか全然駄目だから」
「そこまでアクション要素は大事じゃない……けど、きみがやったら落下死しまくるかも」
それと眺めているだけでも時々3D酔いする。
「見ているだけでいいの。ぼーっと過ごすのって理想的な休日な気もするし」
「それは、ま、そだな。そういうのもいいね」
夫はそのあたりを強く勧めない。尊重と、適当は両立する。
前屈みの身体を戻して、ソファーの背もたれに寄りかかり。
膝を押すように重ねた手のひらから頭の上へ、せり上がって浮かんでくるものを思う。
戸川さん。なんとはなしに、辿り着いてしまう。
ゴムボールを楽しそうに放ってくる姿へ追随する感情に名前をつけようとして、また失敗する。戸川さんの休日はどんな過ごし方なのだろう。友達とどこかへ出かけているのか、或いは、彼氏とデートでもしているのか。家に留まっていることはないと思う。想像が広がると、段々、気持ちの晴れ間が怪しくなってくる。私の知らない人間関係の中で傷ついたり、不健全でなければいいと思ってしまう。
それは生徒というより、姉から妹に向ける気持ちに近いのかもしれない。
教師が生徒にそんな気持ちを持つとか、気持ち悪いかも、と自嘲する。少し話しただけなのに変に入れ込んでしまっている。戸川さんの人懐っこさを勘違いしているのかもしれない。
私はたまたま担任になっただけの先生で、戸川さんは、他と変わらない教え子だ。
でもあの子は、あの人当たりの良さで周りの多くを勘違いさせそうだ。
まず、あの声が悪い。せんせぇと呼ばれると耳がざわつく。やや幼さを含んだような調子で少し甘えるようにさえ聞こえるのだから、それはもう、効果的だ。意図しているわけではないからこそ成立する、いい意味でのあざとさがじわぁっと来るのだ。
それから、背丈。戸川さんは教室の教壇から見ていても同年代の女子と比べてその高さに目が行く。それでいて髪の毛はふわふわしているし、仕草も可愛らしいものだからその背丈との段差に引っかかってしまう子はきっと、たくさんいると思う。男子人気は絶対高いと言える。
そして極めつけは、あの素直で感情を隠しもしない向き合い方。
戸川さんの花綻ぶような感情を正面から受け止めて、翻弄されているのは否めない。
だって自分と向き合って、あんなに楽しそうにしている相手と出会うのは、本当に久しぶりなのだ。
それは夫を対象に入れても、久しく失われていた明るさだった。
夫とはいい意味で落ち着いてしまって、家族の枠の中でお互いを見ているから。
……だから。
「このあたりに、グローブ売ってるとこってあるかな」
それを話題として出したとき、私の頭にはなぜか、瓦礫の欠片が浮かんでいた。欠片がどこからかこぼれて、一つ、崩れ落ちていくように。なぜそんな瓦解が連想されたのか分からないけれど、背筋を走るものは悪寒に似ていた。
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