一章『潮の匂いが届かない』 その九

「グローブって、野球のやつ?」

「うん」

「野球部の顧問でも始めた?」

 夫がコントローラーを一旦置いて振り向く。

「生徒とキャッチボールすることになって」

 なに、と夫が過敏に反応する。

「甲子園目指すのかい?」

 なんでちょっと目を輝かせているのだろうこの人は。

「あれ、野球部の顧問だったか?」

「じゃないけど。生徒指導の一環……かな」

 またそんな風に表現する。

「不良を更生? キャッチボールで? いいね!」

「あなた、日本史の教師に向いてるかもね」

 なんで? と夫が首を傾げるのを眺めながら、検索すればいいのかと電話を取った。

 地域名と、スポーツショップで検索してみたら地元のすぐ近くに見つけることができた。散歩の通り道の中にあったのだなと新しい発見を得る。ビルの二階にあるらしい。

 窓の向こうをまた見る。歩いていくには、いい天気だった。

ソファーを手で押して立ち上がる。

「ちょっと買ってくるね」

「俺もついていこうか?」

「ううん、長い買い物になると嫌がるから」

「はっきり言われた!」

 でもそのとおり、と夫が朗らかに笑っている。ここでそうでもないよと取り繕わないのが夫らしい。財布と電話だけ持って、化粧もいいかと省いて家を出た。

 アパートを離れて歩き出してから、遅れて心配になる。

 これで戸川さんが実は乗り気じゃなくて、言ってみただけなのにという反応をされたら少し…………結構物悲しい。私だけ浮かれていたという恥ずかしい事実と、使い道のないグローブが手元に残る。どうしようかなと迷いが生じたまま、足は惰性のように前へ進んでいく。

 なにも考えないでいるとどんどん目的地へ向かうのだから、きっと、買うのをやめる気はないのだろうと他人事な流れに身を任せた。時折携帯電話で確認しながら、休日の表通りの賑わいに目を細める。駅やバス乗り場から流れてくる大量の観光客の中に、少しだけ戸川さんの姿を探してみた。もちろん、見つかるはずもない。

 目的地のビルの名前を確認して、ここかなと見上げる。アパートと間違いそうな作りの雑居ビルで、ビルの壁に一応看板があり、地味な色合いの暖簾もかかっているのだけど、店名の字がやや小さい。脇の狭い階段を上がっていくと、広いとは言えないスポーツ店の奥からテレビの音が聞こえてくる。スポーツニュースを流しているようだった。

 足元は芝生を模したような色合いと触りの敷物で、右手側にスパイクやシャツ、左手側の棚にはグローブが綺麗に揃えて置かれていた。店長らしき人物がすぐ私に気づいて、少し驚いたような反応を見せた。私みたいな客が一人で来るのは珍しいのかもしれない。

 分からなかったので、キャッチボールに向いているグローブありますかと尋ねたらいっぱいありますと紹介してもらえた。その中で色も含めて、デザインが気に入ったグローブを選ぶ。大体七千円で、思ったほどの値段ではなかった。

 それから、グローブの手入れについても丁寧に解説してくれた。その過程で保革油、クリーム、コンディショナーと関連商品を次々に出してきて、なるほど商売上手と唸った。どれが必須でどれが大事か当然、判断できない。でも全部あれば取りあえず不足はないだろうと、勧められるままに全部買った。幸い、散財する趣味など持ち合わせていない。

 だからたまには、いいだろうと思ったのだ。

「お子さんとキャッチボールするんですか?」

 全部袋に丁寧に詰めてくれた店長が、そんな話を振ってくる。

 子供がいるような年齢にちゃんと見えるのだなと思いながら。

「そう、ですね……子供と」

 私より背の高い、教え子と。

 袋を抱えて、雑居ビルを後にする。他の買い物もついでに済ませて帰ろうと思い、夫に連絡して冷蔵庫に足りなさそうなものを確認してみる。夫からの報告を吟味すると、牛乳ともずくが足りていないみたいだった。夫は健康にいいと聞いてから毎日もずくを食卓に添えている。

『じゃあ買って帰ります』

『悪いねー。グローブいいの買えた?』

『多分』

 後は戸川さんが少しくらいは社交辞令じゃないと助かる……嬉しい? のだけど。週明けに本人に確認を取ってから買うかどうか決めればよかったのに、自分がやや前のめりにあることを恥じる。一生徒に少し肩入れしすぎなので、自重は必要かもしれない。

 駅の方面へ回り道して、スーパーで牛乳ともずくを買い足す。お肉も安売りが残っていたらと見て回ったらけれどさすがに休日の昼過ぎには高望みだった。残念、とスーパーを出た。

 スーパーの外に出ると丁度目の前に、大きな鳥居と狛犬が鎮座している。夫がゲーム内で制作したもののモデルである。鳥居の下には外国人を含む大勢の観光客が群れを成し、スマホを構えていた。新郎新婦もここで記念撮影する姿をよく見かける。

 そしてその観光客に調子のいい声をかけながら人力車を引いてくる、女性の姿があった。

 和装と引いているものと髪全てが異質で、目を引く。道路を横断して駅へ向かおうとしているのかこちらへやってきて、近場で目が合った。

 陽光を着飾ったような眩い金髪を、日の下で浴びせられる。

「この間会った先生じゃあないか」

 先日、戸川さんと一緒にいた自称姉だ。向こうもすぐ私に気づいたらしく、人力車の行き先を変えてこっちにやってきた。一仕事を済ませたのか健康的な汗をいくつも浮かべている。その髪の隙間からこぼれると、汗まで金色に染まりそうだった。

「こんにちは……」

「はいこんにちはー。君のために後ろの席を空けておいたよ」

「え? あー……すいません、そういうの上手く返せなくて」

 思いつかなかったので謝ると、なっははははと大笑いされた。大口を開けているのに、不思議と品が崩れていない。その髪の繊細な色合いが気品めいたものを生んでいるみたいだった。

「名前、伺ってもいいですか」

 顔はテレビに映っていたのを思い出せたけど、名前は一向に出てこなかった。すごく、特徴的な名前だったはずなのだけど。

「あれ名乗ってなかったかな? スター・ハイスカイ」

「はい?」

 青空を背景に、その人の微笑みは真昼の月のように溶け込む。

「星高空。ほら、そのままでしょ」

 スター、ハイ……はいはいはい。ようやく思い出す。

「……苺原樹です」

 統一性のある名前だった。ある意味、お互い? 原はどうだろう、とちょっと考え込みそうになる。それはさておき、名乗った調子を汲み取ると星と高空で区切るらしい。

 不思議ながらも、気持ちのいい響きがある名前だった。

「苺ちゃんかぁ。じゃ、先生って呼ぶか」

「はぁ……」

 私がどんな名前でもその結論に落ち着きそうだった。

 そういえば目が合っただけなのに、どうして話しかけてきたのだろう。

「先生なんしょ? 高校の」

「ええ。星……さんはテレビで見かけたことありますよ」

「あー、取材受けたことあったからね」

 これのお陰、と星さんが髪の毛を摘む。髪の毛だけではないだろうな、とその顔を見ていると思う。星さんの容姿は同性から見ても端麗で、派手な髪の色がまったく嫌みになっていない。

「先生お茶でもどう? 美人見たら一応誘うことにしているんだ」

 声をかけてきたのは、私では到底思いつきそうもない理由だった。

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