一章『潮の匂いが届かない』 その十
「勤務中ですよね。話していていいんですか?」
「次のお客捕まえるまでは休憩。……んー、先生ってさ、学校で人気あるでしょ」
人の顔をまじまじ、不躾なほど眺めながら言ってくる。
「自分ではよく分かりません」
そう言うしかない。本心でどう思い、どう感じていても。
「スーツ脱いで髪下ろすと大分雰囲気変わるね。美人さんだよ」
その声と笑顔が、胸を透かせるようだった。
「先生も取材受けたら、美人教師が映ってたって話題になると思う」
「お褒めいただいて、どうも」
「謙遜するねぇ。でも教師ならそういうのは大事か」
車夫に謙遜は必要ないのだろうか。
「ところでなにそれ? 運動具店?」
私の抱えている袋について尋ねてくる。袋から新品のグローブを取り出して見せると、星さんがほほーぅと適当に感心した。
「グローブじゃん。甲子園目指すの?」
発想が夫と同レベルだった。こういう言い方もなんだけど反射的というか、頭をあまり使うことなく取りあえず反応してみるとそこに行き着くのだろうか。
「生徒……戸川さんとキャッチボールをやろう、みたいな話になって」
生徒指導の一環以外言えないのか、と表現の不足に呆れたので
「とがわ……ああ、凛か。あ、妹のことね」
設定を思い出したように早口で付け足す。
「いいですよ、姉じゃないのはもう分かってますから」
なははは、と星さんはまったく悪びれない。
「戸川さんとはどんな関係なんです?」
「もう、関係とか野暮なこと聞くねぇ先生」
このこのぉ、と人力車でタックルしてくる。斬新な体験だったけど、これ人身事故では。
「どんな関係だと思う?」
「分からないから聞いているんです」
「あっはは、ごもっとも」
生真面目な対応へのからかいを含むような、軽薄な笑い方だった。
「凛とは遊び友達だよ。ふむ、遊び友達ってなんかいかがわしい響きあるね」
「夜の遊び友達、ですか?」
「お、余計にやらしくなった」
気に入ったらしく、髪と肩が揺れる。こちらとしてはあまり笑いごとではない。
「確かに凛と会うのは夜だね。昼は凛も学校だし、私働いてるし」
「戸川さんは……ん」
戸川凛の事情をこの人が知っていたとして、聞いていいものではないだろう。私になんの権利があるというのだ、単なる担任なのに。そこをわきまえないといけないしあと……心中にあったのは、戸川さんに嫌われるのを忌避する、そんな感情だった。
「本当にただの友達なんだよ。先生に話せることもあるけど、そういうのを勝手に聞くのはよくないと思ってるんでしょ? それなら、その尊重の意思を大事にすんべ」
星さんが態度から早々に察してくれた。ありがたいのだけど、そうなるとこの人と話すことは特にない。この人に、戸川さんの夜間外出を咎めるよう頼んでも無駄だろう。
「しかし凛とキャッチボールねぇ。夜のキャッチボール?」
「ボール見えなくて怖そうですね」
「生徒とのちょっとした交流のためにそういうの買っちゃうんだ」
ぐ、と喉が詰まる。いざ客観的に指摘されると、少々据わりが悪い。
確かに、そうなのだ。これが例えば別の教え子だったら私は、グローブを買わないだろう。
戸川さんに感じている特別性の名前。
そこを考えると、心が濁る。なにかがどろどろと、混入する。
「いけませんか?」
「いいやぁ? 凛がお気に入りなのかと思ってね」
「気に入るとかそういうのは……教師ですから」
「愛か?」
「はい?」
「愛じゃないとしたら、変人だな」
ごくごく真面目な調子で、極端な評価を下してくる。自分で言うのもなんだけど善良とか、そういう無難な表現はないのだろうか。
「戸川さんが、キャッチボールするなら夜に出歩かないと言ってきて」
「ふぅん、凛がね……ああ、そういうことか」
星さんがなにかを物語るように、横目で私を捉える。細められた目と唇には、好奇心と下世話の狭間にあるものが化粧の代わりをしていた。
「思わせぶりですね」
「変と恋ってちょっと似てるよね」
会話を無視するのがなかなか上手い人だ。話を聞いてないとも言う。
「字面の話ですか?」
「状態異常の話。偏って、崩れそうになるところ」
蘊蓄のありそうな話を一つこぼしてから、星さんが人力車の……取っ手? 掴んで押す部分の正式名称が出てこない。とにかくそこを掴み直し、動き出す。
「凛はいいやつだけど、先生、気をつけなよ」
「気をつける?」
うん、と星さんが一度頷いて。
「あいつ、あれで重いから」
そう教える星さんは、なにかを含むように笑っていた。
「重い……」
「あと顔のいい女に弱い。ま、それは人類共通の弱点かもしれない」
そう言い残し、顔のいい女が手を振って去っていく。小さく頭を下げておいた。
星高空。恐らく年下なのだけど、物腰に達観を感じさせた。人と話すことに慣れているのか、それとも、割と他がどうでもいいだけなのか。町中でよく見る頭と顔が、駅前のお客さんを引っ張ろうと友好的な態度で近寄っていく。人の休日こそ繁盛する仕事なのだな、と見送った。
長く地元に暮らしているけれど、そういえば人力車を利用したことはない。
これからもないだろう、多分。観光地価格で結構高いとは聞いているし。
グローブを袋に戻して、日差しですっかり熱した髪を一撫でしてから歩き出した。
「戸川さんかぁ……」
私はまだ、戸川さんの重さを感じていない。軽やかな部分に心地よさを覚えているだけだった。それを知るまで関わるのは、教師の領分から逸脱している気もして。
私は戸川さんとの距離を、どれくらいが適切と判断するのか。
それと、もうひとつ。
「顔のいい……女?」
どういう意味でそう言ったのか、帰路を行きながら少し考えた。
日曜日の晩、布団に入る前からそわそわしていたのは認めざるを得なかった。
布団に入ってからも足の指が焦るようにぐにぐに動いていた。なかなか寝られなくて、自分に呆れる。戸川さんにグローブを見せたくて気が逸るとか、なんなんだ私は。教師が生徒に友達感覚なんて気持ち悪い。持っていくのやめようかな、と躊躇まで生まれた。
でも戸川さんが少しでも喜んでくれたら、割とそれだけで清らかな気分になれそうだった。そのために買ってきたのだから。……なんか、やっぱり気持ち悪い教師じゃないか私。本当はよくないのだ、こういうのは。特定の生徒に肩入れしてはいけない。……どうしてだろう?
贔屓が生まれるから? それは確かによくない。他の生徒からの不平不満を生みかねないので、よい教師からは離れていく。でもそれくらいではないだろうか。つまりいい教師であることを諦めたら、贔屓してもいいのか。……それって開き直りと言うのでは?
よくないことだと根付いた常識を再び言語化するのは存外難しいものだった。
だけどそんなことを小難しく頭の中で練っている内に、寝付くことができた。
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