一章『潮の匂いが届かない』 その十一

 翌朝、棚の脇に置いてあったグローブを忘れないうちに袋に詰める。起床から寝癖も直さないでまずやることがそれだった。グローブは教えてもらったとおり手入れをして馴染ませておいた。もっと待たないといけないのかもしれないけど、そこまで本格的に取り組まなくてもボールは捕れるだろう、と待ちきれなかった。スポーツショップではボールも一個貰った。恥ずかしながら無学なので、ボールに柔らかいのと硬いのがあるという差もよく知らなかった。耳にしたことはあっても左から右へ通り過ぎていた軟球硬球というのはこれのことか、とようやく気づいた。これは軟球の方らしいけど、軟とつく割に結構手ごたえのある触り心地だ。これより硬いものを投げて打っているなんて、プロ野球って凄いんだなぁとテレビで見かけて今更感心した。

 グローブの入った袋を持って立ち上がると、窓の外はまだ薄曇りのように朝焼けが遠い。

「あのねぇ……」

 普段はお世話になる目覚ましも今日は不要で、溜息を吐く。

 あまりわくわくするんじゃない。お弁当の用意でもしよう、と台所に向かった。

 通勤するまでの諸々の間、戸川さんから淡泊な反応を貰って微妙な空気で終わる状況を十回ほど想像しておいた。これだけ念入りに事前予防しておけば、気落ちも最小限で済むだろう。

「お、グローブがない。いよいよ甲子園への第一歩だな」

「目指さないって」

「じゃあどこへ行こうというんだ!」

「学校」

 夫は実際に野球をやらないけど、野球自体は好きなようでよくテレビ観戦していた。特に夏の高校野球は休日になると律義に見ている。地元贔屓もないみたいでどっちが勝っても楽しむし喜んでいた。

 いつもの鞄に加えてスポーツショップの袋をガサガサ言わせながら学校に向かった。通勤中、戸川さんにどうグローブを披露したものかと考える。急に朝からグローブ見せに行ったら引かれないだろうか。私が学生だったころ、そんな先生が近づいてきたら警戒してしまう。えぇ、じゃあ駄目じゃない? やっぱりやめる? と学校に着くまで三回くらい葛藤した。

 朝のホームルームの間も、どうグローブを見せればいいのかと引き続き思案していた。戸川さんに傾倒するのはいいけど、よくないけど、業務に差し支えるようならさすがに感心しない。でも私は他のことをずっと考えていたのに、問題なくホームルームを進行させてべらべらと喋っていた。変なところで小器用なのかもしれない。それとも、中身がまったくないだけなのか。

 結局ホームルームの終わりまで思いつかなかったので、普通に声をかけるしかないか、と戸川さんの席まで向かう。ここで見せたら他の生徒の目もあるし、また教科準備室に呼ぶしかない。

「戸川さん、ちょっといい?」

 早くも周りの生徒と話し始めるところだった戸川さんが顔を上げる。声をかけてきた相手を確認してから、やわやわと微笑んできた。

「なぁに、せんせ」

 この子はいつも人当たりのよい反応を浮かべるから、本心で私をどう思っているのか汲み取れない。どうって、まぁ、単なる先生でしかないのだろうけど。

 他の生徒たちからも視線が届く。盛り上がっていたみんなが無言になる空気が少し辛い。

 極力、平然であることを意識して用件を切り出す。

「昼休み、ちょっと来てくれる?」

 戸川さんが不思議そうな顔になって、間を開けるのが辛い。

「あ、呼び出しじゃないから」

 余計に変かな、と言ってから失敗を感じる。呼び出しじゃないのに呼ぶって、私的になってしまう。焦って目の中が回り出す。これ以上喋ったら余計に綻びが生まれそうだった。

「いいよー。この間と同じとこ?」

 戸川さんがあっさりと受けてくれて、助け船になる。

「うん」

 最低限の受け答えを済ませて、「それじゃあ」と早足にならないよう心掛けながら離れる。

「最近どうしたぁ?」

「んー、せんせぇとらぶらぶ?」

 おどける戸川さんにもなにも言えず、聞こえなかったことにして教室を出る。出てから、そのまま壁に真っすぐ歩いて額を押しつける。

「なにをやっているのか」

 独り相撲の空回り。久しく忘れていた、距離感の見誤り。

 じわじわ来る後悔に慣れるまで、壁に刺さっていた。



 そわそわが足下を小走りで駆け抜けていく、そんな時間が続いてようやく昼休みが来る。早起きしたのもあったけれどここまで長かった。授業が早く終わらないかな、と授業する側が思いながら教科書を開いていたのは、大いに恥じるべきだった。

 戸川凛は、私にとって一体どれほどの大きさなのか。

 戸川さんが来るのを待つ間、座ってそんなことを考えていた。

戸川さんは、なかなかやってこなかった。忘れているのかも、と可能性に気づいて教室に行くか迷った頃、扉をノックする音がした。「どうぞ」と呼ぶと、戸川さんが顔を覗かせる。

まずはちゃんと来てくれたことに、安堵する。

「いらっしゃい」

 落ち着きを装って出迎えながら、椅子の裏側にずっと用意してあるグローブを掴む。なんとも傾いた不自然な姿勢になっていることだろう。もう少し滑らかにことを運べないものか。

 私まで思春期の過剰な気負いがうつったようになっている。

「せんせぇがまた迎えに来てくれると思って待ってたんだけど」

「あ……そっか。ごめんね」

「いいよ」

 にこっと、戸川さんが笑顔で許す。あらかじめ用意しておいたような表情の切り替えだった。戸川さんは、そういうところがある。誰に対しても笑顔で、角がない。そして出っ張りがないということは、引っかからない、ということでもあった。

 あいつ、あれで重いから。

 戸川さんが転がって留まらないから、私はそれを感じ取れないのかもしれない。

「それで、今日はなぁに? 昨日の夜はせんせぇと会わなかったよ」

「実はね……」

 やっとこの瞬間が訪れた。どう見せるのが上手いのか悩んだ末、隠していた腕を持ち上げる。

「じゃーん……」

 言っておいてじゃーんはないだろうと後悔した。だからどんどん語尾が弱くなる。

 じゃあどう見せればよかったんだと空回りしたグローブが、頼りなく私の前に浮く。ばーんか? やっぱりばーんの方だったのかな? もう一度言う? いや絶対恥の上塗りになる。

 戸川さんも目を丸くしている。もうちょっと、もうちょっと見せ方があったのではないかと血の気が引きそうになる。どうしよ、とグローブの革の匂いに助けを求めそうになる。

 と。

 丸くしていた目が、理解を得たように収束して。

 ぱーっと、思わずこちらの目が眩みそうなほどに。

 戸川さんの笑顔が、光った。

 今までの笑い方が仮面のように思えるほど、別物だった。

「買ってきたの?」

「うん……」

「キャッチボールのために?」

「そう」

 戸川さんの目がどんどん見開いて、怖いほど、光り始める。

「わたしのために?」

 私には、未来予知の力なんてもちろんない。

 だけど人生には時々、こういう感覚が働くときが訪れる。

 あ、これにどう応えるかで、目の前に見える小さな段差を飛び越えられるか決まるって。

 そういう質問が今、目の前にあった。

 私は、それを感じ取ったうえで、派手に転んだ。

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