一章『潮の匂いが届かない』 その十二
「そう、なっちゃうのかな」
特定の生徒に肩入れ贔屓その他諸々うるさい。
戸川さんの笑顔に魂が掬い取られて、答えは浮き上がる。私が弱弱しい笑顔で取り繕おうとする間に、戸川さんの目がキラキラしていた。もう、きらっきらだ。人間ってこんなに発光できる生物なのか? と疑問を覚えるくらい輝いている。晴天の海面を見つめるように、私の目に焼き付きそうだった。
「わぁ……あは、っは」
頬の緩みが抑えきれないように、戸川さんの顔がだらしない。年齢よりも一層幼く映ったその表情の変貌に、今度はこちらが目を丸くする。これが、本当なのだろうか。
これが戸川さんの素顔。子供みたいな笑い方をする、光り輝く女の子。
私は見たこともないその光に、圧倒されてしまう。
戸川さんのことをよく知っているとは言い難くて、子細は掴めないのだけど。
見て分かることは、よっぽど。
刺さることだったらしい、このグローブが。
そして、戸川さんが飛び跳ねる。
持っていたお昼ご飯らしきお菓子を放り出して、空手になった戸川さんが私の手を握りしめる。そしてそのまま引っ張って歩き出す。軽快に段差を駆けあがる心持で教科準備室を出て、廊下を走る。手を取られた私も当然、その速さに付き合うことになる。
「戸川さん、ちょっとっ」
言いたいことがいっぱいあった。お昼ご飯、廊下を走らない、繋いだ手。でもどれも駆けっこに置いていかれるし戸川さんは歌うような笑い声をあげて、ぜんぜん、聞いていなかった。
靴さえ履き変えないで校舎を二人で飛び出す。そのまま地球の果てまで走っていきそうだったけれど、運動場まで出てきたら急ブレーキをかけて止まったので、ほっとしながら息を整える。こんなに本気で走ったのはいつ以来だろう。こっちは呼吸が荒くなっているのに、戸川さんは踊るようにくるくる回って私との距離を取っていた。
「戸川さん……」
「そんな優しいとさ、わたし、せんせぇのこと好きになっちゃうよっ」
町全体に響きそうな元気な大声で、勘違いしてしまいそうなことを言ってくる。
「そういうのはねー、気軽に……」
「せんせ、はいっ」
人の注意もまるで耳に入っていない様子で、戸川さんが催促するように拍手してくる。ボールを持ってくる犬を褒めるような仕草に若干こそばゆくなりながら、軟球を緩く放った。戸川さんはグローブを持っていないから、怪我をしないように慎重に投げないといけない。
戸川さんは両手で上手く軟球を受け止めて、手の中で転がるのをご機嫌そうに見下ろす。教室で、友達に囲まれて。それだけでは見せる気配もなかった戸川さんの本心が、こんなにも無防備に露わになって私に注がれる。
そのことに抱いたものを、慌てて否定する。
優越感なんて、誰に、どんな形で得ようとしているのか。
「明日はわたしも家からグローブ持ってくるね!」
当たり前に明日の予定を宣言する。それを聞いた頬が上擦るのを、自分でも感じた。
今大分、人に見せてはいけない顔になっていそうだった。
明日がある。
買ってきてよかったと、心から思う。
戸川さんが全身から喜びを表現するような躍動感と共にボールを投げ返す。
そのボールを追いかける私の目もキラキラがまるで伝搬したようにうるさく、眩しかった。
「せんせ、今日は暇?」
朝のホームルームが終わるとその確認をされるのが当たり前になっていた。
「今日は……今のところは大丈夫だと思う」
戸川さんが授業開始までの短い時間に教壇へやってきて私を捕まえるのは、昼休みの予定を聞くためだった。時間が空いているなら、戸川さんとキャッチボールに興じるのが日課のようになっていた。運動不足になりがちな職員生活の中で、それを解消する一助となるなら悪いことではないかもしれない。問題は、ないこともないのだけど。
「じゃあ、いつもの場所でね」
二人だけの秘密を共有するように、少しもったいぶった言い方をする戸川さんに、「はい」と小さく頷く。それはいいけど、席に着いている生徒たちからの視線が日に日に増している気がするのは杞憂だろうか。戸川さんと仲のいい子たちからは特に注視されているように思う。それは、まぁ、そうだろう。いつの間にか友達が担任と仲良くなって、昼休みを一緒に過ごしているのだから。不可解と同時に、面白くないと感じる生徒もいるはずだ。
戸川さんはそうした視線を一切振り返ることなく、私を見上げて喜びを表情で示している。教壇の上だと流石に戸川さんを見下ろすことができる。なかなか新鮮な角度だ。
戸川さんがその角度に気づいたように、教壇に飛び乗ってきた。いつも通りの高低差に戻ったのを喜ぶようににんまりして、なにを思ったか私の頭に手を載せてきた。
「へへー」
「こら、先生にそういうことしないの」
頭を撫でてくる戸川さんの手首を掴み、咎める。戸川さんは悪戯を叱られた子供みたいに、無邪気に逃げていく。その後ろ姿に可愛さを見出している自分を、頭を振って払った。
戸川さんは、可愛い。一挙手一投足、どれも瑞々しい。
あの日から私には、戸川さんがキラキラ輝くものに見える。それは戸川さん自身が輝いているのか、それとも私の目にあのキラキラが伝染したのか、判別がつかないのだった。
でも特定の生徒にだけ眩しく見えるのはきっと、都合が悪い。
私は、先生だからだ。
「戸川さんはいいの? 友達と一緒に過ごさなくて」
そして昼休み、教科準備室に駆け込んできた戸川さんに、預かってあるグローブを渡しながら聞いてみる。戸川さんのグローブは使いこまれて、色の剥げ具合や傷からくたびれているといった風情が漂っていた。もう手入れもしていないみたいだ。
そのグローブの具合を確かめていた戸川さんが、私の質問に首を傾げる。
「友達付き合いが疎かになっていないかなって」
先生としては、戸川さんが教室で孤立するようなら一考しなければいけない。
のだけど。
「せんせぇがいいから、ここ来てるんだよ?」
戸川さんはまったく淀みなく、そんな風に返してくるのだ。
その刺さるほどに真っ直ぐな気持ちが、嬉しくないわけではないのだけど。
あいつ重いよ。
なんとなく、私にもそれが感じられるようになってきていた。
「戸川さんがいいなら、いいの」
向き合えずはぐらかしてしまう。そして、戸川さんが手を伸ばしてくる。
「いこ、せんせ」
「うん……」
行くのはいいんだけど、やっぱり、とその手に困りながらも拒めない。
キャッチボールを通して育まれる生徒との絆は誰もが認めるところなのだけど、問題はこれ。戸川さんが当然のように手を繋いでくる。これが当たり前と戸川さんに刷り込まれてしまったのだろうか? 校内を歩く間、私は冷や汗が次々浮かんだまま笑顔を張り付けている。
生徒と教師が手繋ぎは、いかにもまずい。のだけど、表立って指摘されないし注意もされないので、そのまま運動場まで行ってしまう。戸川さんは大またで、悠々と歩いてもうご機嫌だ。
その仕草のどれもが心を和ませる、不思議なものを持っていた。
戸川さんを眺めていると、私はすぐなにかを見つけたような気分になってしまう。
キラキラしている戸川凛に、私はなにを見ているのか。このキャッチボールが続く中でいつか、答えを捕球することはできるだろうか。
もしもそんなときが来るなら、そのときまでに。
「行くよー、せんせー」
「はーい」
もっと、上手く捕れるようになっておこうと白球を追いかける。
緩い軌道を描くボールは太陽に覆われるように、光の中に隠れて「あ」ごつんといった。
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