一章『潮の匂いが届かない』 その十三



「今日は雨降っているからやめときましょう」

「えー」

 朝、戸川さんがいつものように、にこにここっちに来るものだからやる気なのかなと思っていたら本当にそうだった。天気天気、と窓の外を顎で指す。

「プロ野球は多少の雨ならやるんだよせんせ」

「プロじゃないし多少でもないです。土砂降りじゃない」

 しばらく五月晴れが続いていた中の豪雨だった。教室の窓ガラスにも横殴りの雨粒が当たって音を立てている。この中で外に繰り出す気にはさすがになれなかった。

「じゃあ体育館でやろーよ」

「他の生徒も使っていて、キャッチボールはちょっと危ないの」

 なにしろ投げるのは私だ。あまり強く投げないとしても、すっぽ抜けて生徒に当たりかねない。それで不評を買って私たちのキャッチボールに向かい風が吹いてもつまらない。

「そっかー」

「戸川さんが風邪引いたら嫌だから、今日はお休み。ね?」

「んー……分かった」

 ちょっとしょんぼりしながらも、戸川さんが諦めて席に戻っていく。耳と目が沈むような、そういう顔をされると心が痛むので、雨は極力降らないでほしいと思った。これから、梅雨が待っているけれど。

 私も昼休みにキャッチボールすることに慣れてきたから、身体を動かさないと少し落ち着かないかもしれない。戸川さんとの交流で幾分健康的な習慣が身についた。

 それは身体だけでなく、心の躍動も含むのかもしれなかった。



 で、その日の帰り道。

「あ」

「あ、じゃないの」

 おどけて逃げようとする戸川さんの背中を捕まえる。偶然、戸川さんをまた見つけた。

 夜の町でのことだった。確保された戸川さんが、怒られる前に理由を述べる。

「今日はキャッチボールしてないしー」

「してなくても、うろうろしないでほしいな」

 離すともう逃げないで、へへーと笑う。

「せんせ、お仕事お疲れさま」

「ありがと。でもごまかされないから」

 いやいや、と戸川さんが悪びれないで首を振る。今日は星さんも一緒ではないようだ。

「今日は……えーっとー……あ、違うんだよ」

 よい言い訳を見つけたように、表情もくるくる変える。

「今日はねー、お母さんの店に来たんだー」

「お母さんの、店?」

 ここ、と戸川さんが横を指差す。釣られてそっちを向くと、目の前に店舗があった。

「随分とレトロな雰囲気の外観ね」

「元は銀行なんだって。外観だけそのまま使ってるらしいよ」

「へぇ……」

 表の店名と小さな紹介を見る限り、バーのようだった。

「嘘だと思うなら来てみてよ。お母さんいるから」

「戸川さんのお母さんね……」

 これだけ放任している人なので、なんとなく、人物像に目星がつく。

 それでも一度、言ってみるぐらいは試していいのかもしれない。

「じゃあ、今会える?」

「え、本当に来るの?」

 そう来るとは思わなかったのか、戸川さんが珍しく戸惑い。

 逡巡して。

 唸って。

 逃げようとしたのをまた捕まえて。

「ま、いっか」

 最後は諦めたのか、案内してくれることになった。

 重苦しそうな扉を戸川さんが開く。バーか……どちらかというと、そっちの方が緊張していた。

 出迎えた店員が、戸川さんの顔を見て微笑む。

「いらっしゃい、凛ちゃん」

「やほー、久しぶりー」

 顔なじみらしく、挨拶も気安い。それから後ろに続く私を見て、店員が柔らかく頭を下げた。

「お母さん呼んできて。がっこのせんせが会いに来たって」

「先生……凛ちゃん、なにかしたの?」

 ままま、いいからと戸川さんが店員の肩を押す。少し困ったように笑いながら、店員が奥へ向かった。ややあって、恐らくは厨房の方から女性が出てくる。気だるげな足取りだった。

 戸川さんを見つけて、目を細める。その戸川さんの手が、ぎゅっと、硬くなるのを見た。

「学校の先生ってさぁ……なに、あんたなんかやったの?」

「わたしはべつにー……でもせんせぇが来るって言うから。お母さんと話したいって」

 戸川さんが先に、この店の前にいたのだけど。そこは、黙っておいた。

「がっこの先生がねぇ……」

「わたし、そこで待ってるね」

 戸川さんがカウンター席の端に座る。取り残された私と、戸川さんのお母さんが見つめあう。

 戸川さんとは、第一印象だとあまり似ていなかった。化粧の方向性もあるのだろう。

「ま、どーもどーも先生。わたくし、凛の母でございます」

「苺原樹です。今年は担任になりました」

「ふーん。で、先生がお話と言ってもねぇ。あたし、仕事で手が離せないんだけど。ここのつまみと料理全部あたしが作ってんのよ。作ってる横でお話ししますぅ?」

 軽率な笑い方にひん曲がったものを感じるのは、偏見だろうか。

「私が厨房に入るわけには行かないでしょう」

「それはそう」

「お仕事が終わるまで……と言いたいけど営業時間は……」

「夜の一時まで。先生、そんな時間まで待てるの?」

「……それはちょっと難しいですね」

 明日も当然、仕事はある。夫にもそこまで遅くなるとは説明しづらい。

「だろうねー。それなら」

 戸川さんのお母さんが厨房には引き返さないで、近くのカウンター席に座り込む。そして、隣の椅子に手を置く。

「五分で終わるなら座って聞くよ。でも本当に五分で終わってね」

「……分かりました」

 鞄を脇に置いて椅子を引く。座ると角度が変わり、また店内が別の景色を見せる。

 バーに入店するのは初めてで、こういうものなんだと棚に並んだお酒を眺める。程よく薄暗い店内を映し出す淡い明かりを眺めていると、お酒の匂いが鼻を包んでくる。半円を描くようなテーブルの上も半分近くはお酒のボトルで埋まっていた。

 バーテンダーというのを初めて見たことに密やかに感動していると、目が合う。小さく頭を下げると、相手も穏やかに会釈してきた。

「こういう店は珍しい?」

「まぁ、あまり来ませんね」

 戸川母が、じーっと私を見てくる。娘と違って、視線に柔らかいものは一切ない。

「どうかしました?」

「先生、なかなかの美人だねぇ。結婚はしてるの?」

「していますけど……」

「ふーん」

 聞いた割に心からどうでもよさそうだし、なぜか首を傾げる。

「それじゃあ今度は旦那連れて飲みに来てよ。うちの料理評判いいよ」

「もう五分のカウントって始まっているんですよね?」

 もちろん、と戸川母が笑いもせず頷く。そしてわざわざ指折り数える仕草を取ってきた。

 五分か、と切り出し方を一瞬悩んで、本題から入る。

「戸川さん……凛さんは私の教え子です。クラス担任でもあります。その生徒が夜間外出を頻繁に行っているようで、親としては注意なり指導なりをしないのでしょうか」

「しませんよ」

 頬杖をついている戸川母が、気怠そうに否定してきた。

「子供でも大人でも、自分の責任で好きなことして傷つけばいいじゃない。いやていうか、高校生ってもう大人でしょ。凛ってあたしより大きいし。先生よりも大きくない?」

「肉体的な問題ではなく、精神の成熟についてを……」

「そんなの分かるかい」

 鼻息で意見を吹き飛ばすように、露骨に言葉の棘が増した。

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