一章『潮の匂いが届かない』 その十四

「年取ったら心が育つなんて、先生も別に感じてないっしょ?」

「それは、そうかもしれませんね」

 あなたを見ていると、同意したくなる。

「どうして、そんなに娘と向き合うのを嫌がるんですか?」

「嫌っていうかさぁ、料理作って、飲んで、騒いでるのが好きなんだよねぇ。あたしを幸せにしてくれるのはそれくらいなんだよ」

 その発言に、なぜか通り過ぎようとしていた店員が振り返る。戸川母はそれを受けて、失言をごまかすように目を細めて笑った。

「料理を作るのが好きなら、娘に作ればいいじゃないですか」

「娘に作ってても生活できないんだよねぇ」

「娘にも作ればいいだけじゃないですか」

「だっる」

 戸川母が、受け答えの面倒くさがりを隠さない。

「じゃあさぁ。先生が凛のこと見てやってよ」

 終いには、私に丸投げしてくる。

「先生は凛のこと可哀想だと思ってるんでしょ? 憐れんでるんしょ? だったら助けてあげなよ。それはもう、誰もが認める正しいことだよ。誇っていいよ」

 舌があまりに軽く、早口がまったく淀まない。多分、二度と同じことの言えないタイプだ。

 それから、声が大きい。絶対戸川さんに聞こえている。やめろそういうのって、怒りそうだった。

「特定の生徒にだけ配慮することは……」

「そうは言うけど、全員にちゃんと気配りするなんて無理でしょ。絶対偏りと不足が生じる。先生だってこの子はいい子ーとか、かわいいーとかカッコいいーとか思うでしょ? あっちの生徒暗くて話しかけづらいし、なに考えてるかわっかんねぇなーとか、ねぇ?」

「そういう話ではないと思いますけど」

「好き嫌いを意識して無視するなんて、それこそ不自然だと思うけど。平等に、全員に無関心であることはできるだろうけどね。そんな薄情な先生目指してるの?」

 ぺらぺらぺらぺらと、勝手な言い分を斜に構えたまま投げつけてくる。

 そして、きっと測ってもいない時間を適当に決めて打ちきってきた。

「それじゃ、五分話したから。ごめんね、わざわざ来てくれたのに。もしも長々話したかったらさぁ、夕方くらいに来てよ。でもあたしと話しても楽しくないでしょ先生。ぜんっぜん、性格合わないのが分かっちゃった」

「………………………………」

 見る目ありますね、と返すか迷った。

「でもせっかく来たしなにか飲む? 一杯ならサービスドリンクしちゃうよ」

「……結構です」

「断ると思った」

 露悪的な物言いを着飾るその顔を極力見ないように努める。

「あたし先生みたいな人好きだよ。仲良くはなれないだろうけど」

「……私は苦手です」

「ほら友達になれない」

 嘲笑のように軽薄な声を残しながら、戸川さんのお母さんが奥に戻っていく。苦手という表現に譲歩を感じたうえでの反応だった。そういう機微を察することのできる人だとは、短いやり取りで理解した。人の気持ちが分からないわけではなく、つまり、意図して娘をほっぽって好きに生きているのだ。

 余計に、握りこぶしが硬くなった。

 席を離れて戸川さんを探す。戸川さんはカウンターの端の席でチーズを食べていた。制服姿の女の子がバーの控えめな明るさの中に座る姿は、不思議と絵になっていた。

「あ、終わったの?」

「ええ。食べたら行きましょ、戸川さん」

 背中を軽く叩くように促すと、戸川さんは一瞬、目を丸くした後に。

「うん」

 最後のチーズを口に運んでから元気よく席を立って、隣に並んできた。戸川母は顔を覗かせることもなく、代わりに最初に案内した店員が見送りに来てくれた。さっき戸川母に振り向いた店員でもある。

「またね、市来ちゃん」

 戸川さんが親しげに挨拶する店員に、私も会釈する。店員もまた、親しみを込めた微笑みで戸川さんを見送るのだった。

 バーを出てから、外の暗がりを確かめて戸川さんに提言する。

「遅いし、家まで送ります」

「せんせぇが?」

「……これも教師のやるべきことだから」

 言い訳のように、耳にかかった髪と目が少し横に逸れた。

 あの母親との会話で幾分同情的になっていないといえば、嘘になる。そうした感傷的なものが、その提案を生んだ。この夜更けにこの子を一人で帰すのは、私にはできなかった。

「うん、それもいいね。かえろ、せんせ」

「そんなに遠くは……」

 声が途中で夜の尾に包み込まれる。均一的だった空気の温度に、温かいものが割り込む。

 戸川さんは当たり前のように私の手を取り、握って、先導してくる。

「遠くはないよ。でも二十分くらいは歩くかも」

戸川さんの方が手のひらは大きく、指も長い。だから簡単に制圧されてしまう。絡めとるように繋がり、戸川さんの体温に私の手が溺れていく。戸川さんの手は私より温かった。

「ちょい、ちょっと」

 校内でも繋いではいるけど、外で生徒と手を繋いで歩くなんて……いけないのだろうか? これが例えば男性教師と女子高生だったらきっと、問題になるだろう。憶測と詰問の果てに立場を失うことだってあり得る。それが女性教師なら許されるというのも変な話なので、きっと、この手繋ぎは駄目なのだ。

 でもごく自然に握られた手は凹凸が少なく、触り心地の良さに留まりそうになってしまう。夜はその繋がりを人目から少し隠してくれるけれど、お互いの体温が意識の外に持っていくのを許さない。

 他の生徒や同僚にもしも見られてしまったら……どうなってしまうのだろう?

 学校の中だから辛うじて見逃されているそれが、どんな意味を持つのか。

「せんせぇ、お母さんと話してどうだった?」

 手を繋いでいることはまるで意識していないように、戸川さんが笑顔で聞いてくる。

「どうって?」

「素直に思ったこと、聞かせてよ」

 素直になるには、最初に大きな段差があった。否定的なことを言うときはいつもそうだ。

 その段差を苦労して乗り越えた後、広がる真っ平らな道を疾走する。

「ひどい親ね」

 本音を明け透けにこぼす。受けた戸川さんは「あは」と短く、乾いた笑い声を漏らす。

「私は母にちゃんと想われて育ったと思うし、自分がまだ母ではないからはっきりとしたことは言えない。それでも、子供を大事に思わない母親は……他人事でも腹立つ」

 握る手に力がこもりそうなのを、慎重に引いて、紐解く。

「せんせぇって、いいやつだね」

「戸川さんのお父さんは?」

 聞いていいのか悩む質問に、様々な意味を載せて曖昧に送り出す。お父さんはどうしてるの、お父さんはそもそもいるの、その他諸々の聞きづらさと、踏み込んでいいのかの遠慮があった。

 戸川さんは握った手を少し大きく振りながら、軽やかに答える。

「小学一年生のときに死んじゃった」

 一瞬、手の振りが戸川さんとずれる。

「そうだったの」

「今、謝ろうか迷ってた?」

 楽しそうに聞いてくる。

「ちょっと」

「いいよ。正直、あんまり覚えてないし。そんなに家にいなかったんだよね、お父さん」

 お父さんもお母さんもいない家に、じゃあ誰がいるというのか。

 そう、戸川さんしかいない。そんな家庭で育ってきたのだ、この子は。

「それからはお母さんも新しく女作って……市来ちゃんはわたしにも優しいけどね」

「ふぅん……」

 うん?

「……女?」

 夜の散歩の中で流しそうになったそれに、遅まきに引っかかる。

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