一章『潮の匂いが届かない』 その十五

「うん」

 私の疑問に、戸川さんは短く応えるだけだ。無視しているわけでもなく、説明がそれで事足りているように。年齢差とは違う、常識の差異を感じた。

「女って……恋人、ってこと?」

「そだよ。お母さん、男でも女でも好きになったらどっちでもいい人だから」

 それはなんとも、ワイルドな。豪快な。

「そういう人もいるのか」

 私としてはそう言うしかなかった。

「そんで、好きな人ができたら他が割とどうでもよくなる性格でもある」

「…………………………………」

 好きに種類があるのは、分かることだけど。

 娘を愛することは、母親を満たさないのか。

 こんなに可愛い娘を、なぜ、好きにならないのだろう。

「わたしもそういうの分かるから、だからお母さんのこと嫌いじゃないのかも」

 その理解の示し方に、小石を蹴る感触があった。

 分かるということは、好意の形を知っているということ。

 戸川さんの好意。なんでか想像だけで、首の皮が突っ張る。

「好きな子、いるの?」

 まるで同級生にでもなったように聞いてしまう。自分の声と意識に距離があった。平然を装うとして、焦る意識を外に追いやっていた。だから声が他人事みたいに耳に届く。

 戸川さんの指先が更に深く、私の手を絡めとろうと蠢く。

「もちろんいるよ、好きな人」

 耳を裏から叩かれたような、鋭くも一瞬の衝撃が通過していった。

「そうなんだ」

「うん」

 好きな、人。

 その微妙な言い回しに、手汗が滲みそうになっていた。

 結局、ずっと手を繋いだまま戸川さんの家まで歩いた。



 私の暮らす町は古都などと呼ばれることもあり、伝統という名で有耶無耶にした古い建造物が散見される。土蔵みたいな建物と十字の格子が平然と道すがらに見えたりもする。だから珍しいということもないのだけど、戸川さんの家は木造建築で年季が入っていた。

 もちろん、出迎える明かりなど屋内には見えない。夜と同化していた。

「せんせぇ、お茶出すよ。寄ってって」

「いいのよ、気を遣わなくて」

「そんなのじゃないよ。わたしが、せんせぇともうちょっといたいだけ」

 はっきり言われると、少し照れてしまう。そして玄関前で戸川さんが鍵を出すために手を離してくれて、ようやく気が休まる。もちろん、もちろんなのだけど戸川さんに触れることは嫌ではない。でも戸川さんが生徒である以上、軽々に手を握っていると気が気ではなかった。

 表の塀の内側に、袋詰めのサーフボードが立てかけてあった。海が近い町なので珍しいものでもないけど、生徒が所有しているのを実際に見るのは初めてなので、へぇ、となった。

「戸川さん、サーフィンやるの?」

「小学生のときはやってたよ。今は近いとこだと波が全然来ないから行ってないけど」

 話ながら鍵を開ける。

「あと日焼けも気になってきたっていうのはあるかも」

「なるほどね」

 今の戸川さんのきめ細やかな肌に思いを馳せる。馳せないの。

「それじゃ、いらっしゃい。せんせぇ」

 真っ暗闇の家が口のように戸を開ける。その口に呑まれながら、戸川さんが私を招く。

 柔らかい声まで、その輪郭を夜に溶け込むように、誘う。

「お邪魔します」

 靴を揃えて置くために屈むと、家中から漂うような、古い木の匂いがした。

 外観を見ても、中に入っても感じるのは古い作りの家だった。敷物や壁の装飾からそれを感じるのだろうか。田舎の祖父母の家を彷彿とさせる。戸川さんが明かりを点けて、玄関正面すぐの襖を開ける。元は黄緑の襖は日差しによる黄ばみが散見された。

 畳の敷かれた薄暗い和室を経由して、格子戸を開けると居間らしき部屋に出た。その部屋から急に生活の匂いが強まる。なかなか広い空間で、大きめのソファーが幅に余裕をもって置かれていた。ソファーのすぐ目の前にテレビが置いてあり、下の台の収納を覗くと今どき珍しい、古いビデオデッキが置いてあった。

 布団こそ今はないものの、こたつ机の上には筆記用具を纏めたペン建てや爪切り、ねじられて置かれたロールパンの袋が置かれている。机の上以外は物が散らかっていることもなく、整頓と掃除が心がけられているみたいだった。

 テレビの横には、曇りガラスの扉があった。裏口なのか、ガラスの向こうに夜景がぼんやりと見えた。夜は鬱蒼とした木々の影を描いている。敷地自体はなかなか広そうだった。

「せんせ、ここどうぞ」

 戸川さんがこたつ机の近くにクッションを用意してくれる。

「ソファーでもいいけど」

「ありがとう」

 せっかく用意してもらったのでクッションの上に収まる。その座るまでの上下の動きに応じて、室内の匂いが鼻に吸い込まれる。匂いはやはり、戸川さんの纏うそれと似ていた。

「着替えてくるね」

 戸川さんが来た方とは別の襖を開けて出ていく。そして少し遠くから階段を上っていく音がするので、戸川さんの部屋が二階にあることを知った。音を見送るように顔を上げる。

 こんな夜中に、生徒の家にお邪魔して座っている。奇妙な座り心地だった。

 待っている間、畳の匂いに引かれて和室を覗くと、奥の黒ずんだ影の中にピアノが見えた。和室にピアノとはなかなか雅なセンスだ。それから、今どきなかなか見ない気もする石油ストーブが置いてある。ビデオデッキといい、時代を静かに越えてきたものが各所に残されていた。

 石油ストーブの前で屈んで、幼い頃に田舎の家へ帰省した頃に思いを馳せる。祖父母には親切にしてもらったので、いい思い出がいくつかあった。漫画をよく買ってくれて、家の二階で寝転がりながら読んでいたものだった。もう出会えない人にも思い出の中で時々会えるのは、人間の素晴らしさだと思う。

 しばらく、目を瞑って祖父母と話していた。

 足音がして振り返ると、戸川さんが部屋着に変わって戻ってきていた。可愛らしいイラストの象が大きく描かれたシャツだった。長く着ているのか、象の下にあるエレファントのつづりが途中で消えていた。

「せんせぇ、なにか面白いものあった?」

「面白いというか、祖父母の家で見たような懐かしいものがたくさんあるなって」

「ここ元々はおじいちゃんの家なんだって。おじいちゃんたちが死んでからお母さんが住んでて……って感じ」

 玄関が大通りに面しているからか、時々、自動車の走り抜ける音がこちらに届いて家が微かに揺れる。戸川さんと一緒に居間に戻ると、机の上にあったクッキー缶をこちらへ持ってきた。

「せんせぇ、クッキー食べる?」

「いいのよ、気を遣わなくて」

「食べようよ、わたしも食べたいから」

 戸川さんが嬉しそうに缶を開けるので、「それじゃあ」とご相伴に与る。やや硬いクッキーの甘さが仕事帰りの身体に染みる。そういえば晩ご飯もまだだったのを、空腹にお菓子を落とすことで思い出した。

「お茶もどうぞ」

「ありがと」

うろうろ、にこにこ。こういう例えもよくないのかもしれないけど、大型犬が懐いてくれるみたいで可愛らしい。普段はこうして、誰かと家にいることもないのだろうと思うと尚のことだった。

 いくら高校生でも、家に一人では心に隙間ができかねない。

 そうして生まれる歪みを矯正することがどれほど困難か、あの母親は一度でも考えたことがあるだろうか。

「お母さん、本当に帰ってこないの?」

「うん。全然」

「いつから?」

「前からずっと」

 戸川さんが少し早口に、声が硬くなる。クッキーを噛み砕いて、飲み込む。

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