一章『潮の匂いが届かない』 その十六
「そういう人だし、そういう家なんだよ」
戸川さんはとうに諦めているようで、でもそれを実際に口にすると明確に負の感情を表していた。慣れたところで、空白が埋まるわけではない。
「戸川さんは、お母さんに帰ってきてほしいって言ったことは」
「しつこいよ、せんせ」
戸川さんの言葉には珍しく、明確な棘を含んでいた。不機嫌を訴えるように口元は曲がり、掴んだ自身の足首を指で叩き続けている。自分が、不用意に踏み込みすぎたことを悟った。
「ごめんなさい」
「いいけどさ……」
顔の部位はどれも全然、いいけどって角度じゃない。
「でも最後に、あと一つだけ言わせて」
口はへの字のまま、戸川さんがじっとこちらを見つめ返す。
「家族に甘えたいという気持ちは、恥ずかしいことでも間違いでもないから」
それは人としての当たり前の感情であり、幾つになったところで逃れることはできない。家族の形態が変わっても、私たちはそれを求めてしまうものだ。
「……ん、分かった」
耳にかかった髪を弄りながら、戸川さんが目を逸らす。
「……ごめん、態度悪いね」
「ううん。戸川さんが謝るようなことじゃない」
なんの資格もないのに、人の心の深いところに触れようとしてしまった私の落ち度だ。
「楽しい話に戻していい?」
「どうぞ」
していたかな、と振り返るも楽しさがなかなか見いだせない。
でもその柔らかい表情が戻ったので、ちょっと安堵した。
「あ、そうだ。せんせ、ゲームやろ」
口のへの字を解いて、ソファーに飛び移る。表情と機嫌の移り変わりの早さに驚く。戸川さんの方も気を遣って、敢えて明るく振る舞ったのかもしれない。その細やかな心の在り方に、戸川さんの優しさを見る。
「私、ゲームとか下手だから……」
「ゲームって別に、上手い人しか遊んじゃいけないものじゃないよ」
そう言いながらゲーム機を準備する戸川さんを、邪魔なほどのまばたきと共に見守る。
「そっか」
そういうものか、とひどく納得してしまった。下手でも遊んでいいんだ。
なんとなくいつも気後れして断って、相手も引っ込んでそれで終わってしまっていた。それが私の当たり前だった。でも戸川さんは遊ぼうと私の手を引く。目から鱗が落ちるではないけれど、それでいいんだ、と思ってしまった。
生徒に教えられてしまった。
「せんせ、ほら」
戸川さんがソファーを叩く。隣に来いと催促していた。教えられたことの感動に浸って、それならとお邪魔する。戸川さんが用意してくれたコントローラーを受け取って、画面を覗く。
「なにこれ、すっごいぐにゃぐにゃ」
「そのぐにゃぐにゃくんを操作するんだよ」
「ふんふん……」
戸川さんのぐにゃぐにゃくんと協力して遊ぶゲームらしい。目的は……もっとぐにゃぐにゃすること?
「身体がすごく柔らかいのはちょっと羨ましいかも」
「せんせぇ固いの?」
「どっちかというとそうじゃないかなと最近思ってきた」
朝のテレビで時々体操やストレッチを取り上げていて、試してみるのだけどそこで気づかされる。単なる運動不足と年齢かもしれない。
ゲームの内容は、動かしづらいぐにゃぐにゃくん同士で協力してステージのクリアを目指すというものだった。私が操作に不慣れなのもあって、ぐにゃぐにゃ感のやるせなさが五割くらい増している。足腰が頼りなさすぎて、ちょっと歩くのに失敗するとぐでんぐでんに転んでしまう。
「すっごい挟まれてる! ていうか轢かれてない私?」
操作に失敗してぐにゃぐにゃくんが転げまわってねじれていたら、戸川さんが運んできたトロッコに普通に下敷きにされた。事故を訴えると、轢いた戸川さんがお腹を抱えるように笑って肩を震わせる。
こういう不条理を楽しむゲームなのだな、と戸川さんの笑い声で理解した。
私はそのゲームの楽しさに追いつくより先に、戸川さんのはしゃぐ声と顔を、楽しんでしまう。キャッチボールもそうだけど、戸川さんが夢中になる姿に、私は後追いで夢中になる。
この子自身が私にとって娯楽のような面を持っているみたいだった。
戸川さんに関わることで、心が激しいほど豊かに、躍動するのを感じる。それは二十代後半の教職生活の中ではなかなか見つけるのが難しい、炎の塊のように私を刺激するのだった。
しばらく遊んで盛り上がっていたけど、ふと、時間を忘れていたことに気づく。居間の古い壁掛け時計を見上げて、そろそろ帰らないといけないことを知る。戸川さんもゲームをする手を止めて、私の視線の意味に気づいたらしい。
その戸川さんと目が合うと、寂しそうに瞳が揺れるものだから、つい罪悪感めいたものが湧いてしまう。
「ごめんね」
コントローラーを返して謝ると、戸川さんは頭をぶんぶんと横に振る。
「せんせぇが謝ることなんかなんにもないよ」
戸川さんがよしよしと、何故か私の頭を撫でてくる。
「やめなさい」
軽く払うと、手を除けた先に戸川さんの笑顔が花開いていた。
「楽しかった。せんせ、おやすみなさい」
「おやすみ。また明日、学校でね」
「キャッチボールしよーね」
遊ぶ約束が先立って苦笑する。一応、先生としては学校へ授業を受けにきてほしい。
疲労はあるけれど、それ以上に満足感を抱えながら玄関へ向かう。楽しかった。そんな気持ちがまず来る。夫が遊ぶのを後ろで眺めているのも悪くないけれど、誰かと一緒に遊ぶ楽しさというのを今日、思い出してしまった。学生の頃は堪能していたそれが、大人になるにつれて忘れてしまっていた。戸川さんといると、その楽しさが次々にやってくる。
大人じゃなくなっているってことかもしれないと、ちょっと笑う。
「あのさ、せんせ」
靴を履いていると、戸川さんも来た。振り返ると、右足が一歩前に出ていた。
「そのー……お母さんとか、そういうの……嫌な話では、あったんだけど」
存在しない壁でも掴むように、戸川さんの両手が中空を擦る。言いづらそうにして、けれど。
「せんせぇがわたしを心配してくれたのは……すんごい、嬉しい」
戸川さんの頬が、温かく染まる。目の端と口元が柔らかく、溶けるように下りている。
人の嬉しさが自分の嬉しさになる、そういう経験をさせてくれる表情だった。
「これからもいっぱい心配してね!」
「そもそも心配するようなことしないでね」
「なっはははは」
敢えておどける戸川さんに、今はなにも言えないで笑うしかなかった。
「おやすみ」
もう一度挨拶して、戸川さんの家を出た。外の夜は更に深まっていて、思いの外長居してしまっていたことを知る。アパートまで、と少し道のりを頭の中でなぞらないといけないくらい、知っている表通りに出ても夜のせいで惑う。
早歩きで帰路を行きながら、戸川さんが一人でソファーに座っている様子を想像して、その無言を示すような表情に胸が痛んだ。
名残惜しく、引きずられるような気持ちはこちらにも芽生えていた。思ったより戸川さんに感情移入してしまっているのかもしれない。いやしれないとかじゃなくて、している。
戸川さんのお母さんに言われるまでもなく、一生徒という枠をはみ出してしまっている。教え子の戸川さんじゃなくて、戸川さんは教え子でになっている。その順番の入れ替えはきっと、意識として大きい。
戸川さんのお母さんの言うことは、正しくない。詭弁というもので煙に巻いてこようとしただけである。だから私の反発も、据わりの悪さも、決して間違っていない。
しかし一面の真実もそこにはある。
それは唯一の家族であるお母さんに、娘のことを気にかけるつもりはまったくないということだった。それでも私しかいないわけじゃなく、友達もちゃんといて、だけど。
暗闇を振り返る。
やっぱり、私しかいないのかもしれないと、思ってしまう。
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