一章『潮の匂いが届かない』 その十七

「あ、今日もラブラブ~」

 別クラスの女子たちにすれ違いざま揶揄されて、頬が軽く熱を帯びた。

学校の昼休みのことだ。今日もキャッチボールに誘われて受けたのはいいけれど、戸川さんと手を繋いで移動するそれには、まだ適応できていない。

「生徒に手を出すならもうちょっと隠しなよ先生」

「バカ言うんじゃありません」

「手はお互い出してるねー」

 戸川さんが朗らかに笑いながら、握った手を掲げる。

「人聞きの悪いこと言わないの」

「時間なくなるからいそご、せんせ」

 戸川さんが駆け出すのに合わせて、私も慌ただしく廊下を駆けることになる。

「廊下は、走らないの」

「あーそんなのもあったねぇ」

 まったく聞く気がない戸川さんと、周りの視線どちらも気にして気が散って、心が乱れる。

教師と生徒が校内で、手を繋いでいる。

 こんなの噂にならない方がおかしい。表立ってからかってきた女生徒はまだマシと言える。陰ではどう言われているか分かったものではないし、こういうのが生徒を通じて父母に知れ渡ったらまた問題になるかもしれない。いやなる。絶対なる。でも戸川さんが嬉しそうに私の手を取るものだから、危険に鈍感になってしまう。

 たとえばこれが、私が男性教諭だったら即刻問題として取り上げられる。解雇、懲戒免職、犯罪者と不穏な表現が次々に押し寄せて逃げ場はないだろう。逆に戸川さんが男子でも扱いは変わらない。女性同士だから、教師と教え子がからかいながら辛うじて見逃されている。

 なんとなく、隙間を感じる。間隙をついた関係なのかもしれなかった。

 運動場に出てくるまでに、そんなことを考えていた。

「校内で手を繋ぐのはやめない?」

 戸川さんが離れてから提案する。ボールをにぎにぎしていた戸川さんが、笑みを崩さないまま顔を上げる。

「せんせぇは嫌?」

「嫌って、嫌とは違うんだけど……変、奇妙……みたいな」

 戸川さんの気持ちを裏切ることへの抵抗の高さが、日に日に積み上がっていく。彼女への対応を迫られるとき、私は酸素を失ったように息苦しくなる。十歳下の教え子に向き合うというのは、それほど深い場所に潜るようなものなのだろうか。

 私が、表層ではなくもっと深層を目指してしまっているのか。

 グローブにボールを馴染ませてから、戸川さんがまずはと軽く放ってくる。緩い軌道のそれをグローブに吸い込ませてから、同じような緩さで投げ返す。投球動作も大分滑らかになってきたと自分でも感じる。

「せんせが嫌ならやめとくよー」

「嫌じゃないの」

 その否定はすぐに口から出た。戸川さんに触れることが嫌だなんて、そんなことはあり得ない。心が身体より飛び跳ねて反発していた。反応が良すぎて、後から冷や汗が浮かぶくらいに。

「変な噂になったら戸川さんも困らない?」

「変な噂ってー?」

 戸川さんも最近は遠慮なくボールを放ってきて、速度が増している。そして私もそれをなんとか受け止められるようにはなっていた。慌てて小刻みに後退しないで、その場でボールを掴めると少ししてやったという気分になる。手のひらまで届く軽い衝撃が存外、心地いい。

「だからー……教師と生徒が、手繋ぎしていて……」

 それは本来、繋がっていてはいけないものなのだ。少なくとも私の常識はそう捉えている。

 不祥事。

 そんな不穏な単語までちらつく。今までずっと無縁であったはずなのに。

 ボールを受け取った戸川さんがグローブを顔の横に掲げながら、にかーっと歯を見せる。

「せんせぇと浮気してまーす、とか?」

 自分の意思では動かせない耳が、びくびくっと跳ねたのを感じた。

「滅多なこと言わないの」

「わたしはせんせと仲良いって思われたら嬉しいよ」

 ボールより先に私の喉を強く押す言葉だった。続いて届いたボールを取り損ねる。グローブの端で弾いてしまったそれを追いかけて、焦りながら拾う。ボールをぎゅっと握って、気持ちを硬く閉じ込めるように押しつけてから振り返る。

 戸川さんはにこにこと、グローブを掲げながら私を待っていた。

 悩み、戸惑いながらも、私はその笑顔に引き寄せられてしまうのだった。

 そうしてキャッチボールを終えて校舎に帰るときも結局、手を繋いでしまう。

 だって、戸川さんが隣に駆けてきて手を握ってしまうのだから。

「仲良し?」

「……仲良しね」

 いいわけがないのに、戸川さんが嫌な思いをしていないなら、いいか、と受け入れてしまう。顔を上げて歩くのも辛いし、俯いても自分が握りしめている手が見えて、それも辛い。

 辛いのに、身を隠すこともなくこの場所を選び続ける。

「らぶらぶ~」

 戸川さんが声と足を共に跳ねさせるようにおどける。

「……ラブは……」

 声が弱い。

 私は、戸川凛との息苦しさの先になにを見ようとしているのか。

 なにを、欲しがっているのか。

 答えを出したとき、私は、二度と浮き上がれない海の底に落ちているかもしれなかった。



 気づけば渦の中心にいて翻弄されていた。渦は濃い紫色で、見ているだけで胸焼けしそうだ。そしてぐるぐる回っている最中にも別の渦が見えてきて、耳鳴りが強まる。

 渦に呑まれそうになりながら必死になにかを掴む。抱きかかえようとしたそれの知らない匂いに包まれた瞬間、意識が覚醒した。目を開く音が感じられるような、勢いのある開き方だった。

 顔を横に埋めた枕からは、記憶に薄い匂いがした。まったく知らないわけではなく、だけどまだ馴染みがないような、そんな香りだ。それから猛烈な匂いが襲ってくる。その正体は自身の吐息だった。それを嗅いで生まれた頭痛で、完全に目が覚めた。

 知らない部屋の、知らないベッドに横になっていた。飛び起きようとすると、天井に頭でも打ったように鈍痛に襲われる。その痛みは頭の外ではなく、内から来るものだった。

 掴んでいたのは布団だった。知らない柄の布団を大事そうに抱えている。壁と閉じたカーテンもまったく見覚えがなく、これならいっそ私自身まで別人にすり替わっていたという方が自然なくらいだけど、少し痺れている指先は間違いなく私のものだった。薬指の指輪がそれを教えてくれる。

 ベッドの奥には押入れらしき襖があり、描かれている夜景と古い橋はいつか夢で見たようにも思えた。知らないもの、知らないもの、知らないもの……未知の石か砂で敷き詰められた海岸に放り出されたような、困惑と波浪。

 頭がとにかく重い。そして痛い。眼球を少し動かすたび、頭の奥にまで響くものがある。

 波打ち、私の輪郭ごと歪ませてくるこの感覚は、これは……もしかして。

 二日酔い?

 気持ち悪さや胃に来るものはないけれどとにかく、頭痛と揺らぎが酷かった。記憶にない場所にいることへの不安に向き合う余裕がない。着替えないで寝ていたらしく、昨夜のスーツが寝跡でよれよれになっていた。なんのケアもしていない髪がバサバサに降り注ぐ。

 額を支えるように押さえて、頭痛に耐えていると入口の扉が開いた。

「あ、せんせ。おはよ」

「戸川さん……戸川さん!?」

 寝間着らしきシャツと短パンの戸川さんが部屋を覗いてくる。なんで家に戸川さんが、と混乱と同時に頭の鈍痛も深まる。戸川さんも寝起きらしく、寝癖がそのままだった。

「ここ、わたしんち。わたしの部屋、わたしのベッド」

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