一章『潮の匂いが届かない』 その十八

 戸川さんが一つずつ指差しつきで説明してくる。ついでに、私が布団を抱えている様子を見て一笑いする。これも戸川さんの布団で、知らない匂いの正体に気づき、わっと離す。

「戸川さんの家……家? え、なんで?」

 疑問が頭痛を超えて、静かに頭を揺らす。波頭に巻き込まれたように世界がぐらぐらしていた。それと喋ると顎と舌がもの凄く重い。べったりした疲労感が残っていた。

 戸川さんは私の謎には応えないで、ペットボトル入りの麦茶を差し出してきた。

「はいお茶」

「あ、ありがとう……?」

 混乱もそのままに受け取り、促されるままに少し飲む。程よく冷えたそれが渇いていた喉に染みて、通過し、流れ落ちる。受け止めた胃がきゅるきゅると変な音を立てていた。

 乾ききっていた身体にも多少の潤いを得て、軋んでいた内臓が少し動き出す。大きく息を吐くと、残った頭痛以外は落ち着いてきた。それを待っていたように、大人しく側に立っていた戸川さんが話しかけてきた。戸川さんはさっきからずっと、両手を後ろに隠すように組んでいた。

「昨日の夜にソラねぇが連れてきたんだよ。せんせ、めっちゃくちゃ酔っぱらってて一人じゃ帰れないから」

「昨日…………昨日……あっ」

 昨日自分がどこへ行き、なにをしたのか。

 二つに割れた地面の隙間を覗いてやっと見つけるように、思い出す。



 金曜が来ると、学生ほどではないけれど心が軽くなる。仕事は嫌いではないけれど、しなくていいならさすがに嬉しさもあった。ただ試験も近いので準備することは多い。

 これからは忙しい時期だった、だから。

「せーんせぇ」

「あ……」

 その日も予定を窺いに来た戸川さんに、今日は残念に応えるしかなかった。

「ごめん、今日の昼休みはやらないといけないことがあって……」

 それでしょんぼり戸川さんを見て、胸が締め付けられて。

「明日、明日は必ずやろうね」

 手でも掴むような勢いで、強く、約束しようとした。

 いひひひ、と戸川さんが無邪気に笑って、廊下を走っていく。廊下は走らないようにー、と足の動きを目で追いながら訴えると、距離を取った戸川さんが手を振ってくる。

「明日は土曜日だよ、せんせー!」

 指摘されてハッとした。さっき金曜日の気分を確認したばかりなのに、これだ。

 ちょっと必死すぎないか、私。

 でも、嫌なのだ。戸川さんに少しでも失望されるのが。

 戸川さんが反目するのを想像しただけでも、胃が激しい痛みでストレスを訴える。

「……だからそれが、必死すぎ……」

 なんで、戸川さんに嫌われるだけで世界に見放されたような気持ちになっているのだ。

 それも起きたことでなく、空想の段階で。

 自分の頭に不安と、居着く戸川さんを覚えた。戸川さんを覚えたってなに。

 そう、その日の始まりは、そんなところからだった。



 それから、えぇと、確か。普通に過ごした、と思う。

 そこから学校での行動は、特に問題なかったはずだ。

「今日はやらなかったんですか?」

 放課後の職員室で、日本史の先生に話しかけられた。やや白髪の目立つ、ふくよかな女性教師だ。なんの話かと考えるまでもなく、すぐに思い当たる。投げるジェスチャーしてるし。

「さすがに仕事が忙しいときはどうしても」

「でもキャッチボールで生徒を更生って昭和感ありますね」

「更生って、仰々しくないですか。戸川さんはそんな悪い子じゃないですし」

「でも夜遊びが激しいって聞いてますよ」

「夜遊びはしていません」

 声がムキになりかけたのを、ささくれをちぎるように丸くする。

 戸川さんはそんな子じゃない。じゃない。じゃないと思いたい。

「で、昭和。平成でもいいけど」

「はぁ」

「私、その昭和感好き!」

 いいよね! とか言われた。そう言われても「どうも」以外言えることがない。しかし当たり前だけど、同僚の先生も見ているわけである。いいのかなぁ、と思ってしまった。

 ここは、どうでもいい。今に繋がる部分がなかった。ここじゃなくて、もう少し先。

 仕事を終えて、夜、家まで帰る途中。

 金色の蝶が夜を巡るのを見たのだった。



 暗所を舞う、黄金の蝶。

 そんな表現が似合う金髪が、足取りも軽く軽快に揺れていた。

 前に会ったときと同じ場所で、また巡り合った。

「あ、先生じゃん。こんばんは」

 すぐに目が合って挨拶してくる。今日はもう仕事着を脱いで、無地のシャツの星さんだった。

「こんばんは」

「今日は凛が一緒じゃないよー」

 確認する前に先手を打たれた。でも一応、周りを確認する。

「信用なさすぎだろ私」

「しているから探しているんです。戸川さんをかばっているかもしれないし」

 そういった善性がある人だと思っている。なーんだと星さんがあっさり嬉しそうに納得した。軽いというか、適当な感じが強い。軽薄で人当たりの良さを装いながらその実、あまり関心なさそうなのが伝わってくる。付き合いが浅いので、合っているか自信はないけれど。

「先生暇なん?」

「暇……まぁ、仕事の帰りなので暇といえばそうなんですかね……」

 難しいところだ。疲労が伴っているときは時間があっても暇と言いづらい。

「じゃあ晩飯でも一緒にどう? 先生と親睦を深めるのも悪くないし」

 意外な誘いを受けた。そこまで親しさを感じていなかったので、どうしようかと迷っていると。

「あと先生もさー、凛のことで聞きたい話とかない?」

 戸川さんを釣り餌にするように、そんなことを言ってきた。

 私がそんな分かりやすいものに釣られる人間に見えるのか、と憤慨して。

 直後にこの人は私の知らない戸川さんを知っているんだと思うと、心に雨が打ち付ける。

 私の知らない戸川さん。私の知らない相手と、見たこともない顔を浮かべる戸川さん。

 被害妄想めいた情報が頭をぐるぐるして、目の焦点を失いそうになっていた。

 いくらなんでも、必死すぎが、続きすぎ。

「夫に連絡するので少し待ってください」

「あー? あ、そーねはいはい」

 夫という存在に首を傾げられたのを、なぜか印象に残った。

『今日は友達とご飯食べに行くので、帰るのが少し遅くなります。夕飯大丈夫?』

『それならこっちも飲んでから帰るかな。会社の連中に誘われたんだ』

 そう返事が来た後、お寿司の絵文字が送られてきた。回る寿司でも堪能してくるのだろうか。

 しかし友達。久しぶりに友達付き合いというものが巡ってくると少し心が弾んだ。学校の同僚とは仕事上の付き合いで終わっているのだ。案外、私が既婚でなければもう少し声をかけてくるのかもしれないけれど。

 それで、そのまま星さんご推薦の店というのについていったのだけど。

「…………………………………………」

 段々このあたりから、思い出したくなくなってくる。

 連れられた先の門戸は、煌びやかだった。深い青色の屋根と、重厚な作りの扉。普段は通りかかって目に入っても縁がない場所だとすぐ意識から外れる、そんな外装。

 私の乏しい知識でも、それがなにを物語っているかは理解できた。

「あの……ここ」

「女の子と楽しいお酒を飲む場所」

「キャバクラじゃないですか!」

「いいところなのは間違いないでしょ」

 星さんがにやにやと、予想した反応を貰えて喜ぶように笑っている。

「いやだって、私も星さんも、女……」

「女がキャバクラ通って駄目な法律はない。いい経験になるよ多分、さ、行こう」

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