一章『潮の匂いが届かない』 その十九

 星さんが私の肩を抱くようにして、逃がさないとばかりに前へ進むことを促してくる。

「それに私、教師……」

「教師がキャバクラに通い詰めて駄目な法律はない」

「あります! ……あ、ありそうじゃないですか?」

「あるかもねぇ」

 人の話をまったく聞かないでずかずか進んでいく。そう、私は昨晩キャバクラ初体験だった。

 悪い友達に連れられて、知らない世界にご案内された。

 どんどん、思い出す度嫌な汗が浮かんでくる。

 でも中に入ってからの印象は、悪いものではなかった。

「綺麗……」

 全体に深い青を基調とした色合いに統一されて、少し薄暗いのもあって夜の海を彷彿とさせる。ソファーの置き方や調度品はホテルのロビーのようだった。そこが受付だったらしい。

 シックな感じだなぁとか、呑気な感想を抱いていた。

 待っている間、財布の中身を確認した後に星さんに聞いてみる。

「あの、こういうところってやっぱり高いんですか?」

「大丈夫。最近八百屋の前にできた鰻屋も高いから。値段見て驚いたよ」

 大丈夫の意味が分からない。

「一時間で料金が決まっててさ、安い酒は飲み放題だよ。他のもの食べると追加で取られるけどね。あとは指名料とか、延長とか……そうだ、先生はどんな子が好みよ?」

「好みって、え、好み?」

「当ててやろうか。凛みたいな子だろ」

 それを指摘されたとき、確か、頬が燃えた。

「なに、言ってるんですか」

 炎の勢いが強くて、否定に強く踏み込むことができなかった。

「星さんってなにか誤解してませんか」

「なにかとは」

 どれかね、と足下を探す素振りを見せる。ムカッとしていたら、星さんはそれを待っていたように大口開けて笑い出す。

「凛みたいな子は……いたかなぁ。背の高めの子はいるけど」

「だから、違うと、言ってるでしょう」

 大体キャバクラに戸川さんと似た子なんて……いたら、なんか、嫌じゃないか。

 戸川さんに似た子でも、他の人の心に擦り寄るような笑顔で、甘えるように寄りかかっていたら……嫌じゃないか。どんどん語彙が失われて、駄々っ子みたいな拒否だけが残る。

 そう言ってしまったら、「なんだ、結構本気じゃん」と星さんがはやし立てて来て、頭が追いつかなくなってきたところで店の奥へと案内された。結局、指名はしたのだろうか。

「いらっしゃいませー」

 店長らしき人物が星さんを見た途端、苦みを圧し潰して平坦になったような唇で、渋々挨拶してくる。接客業で見せてはいけない顔と態度から、気心の知れた仲であるのが窺える。

「ヘイ店長! 一番活きのいい子を頼む」

「いいから黙って座って待ってろ」

「はい。あ、今日は友達も連れてきたから。ほらほら」

 星さんがお土産の鳩サブレを見せるくらいの感覚で私を紹介する。

「いらっしゃいませ」

「いえ、どうも……」

「今更態度変えても遅いよ」

 うるせぇ早く行け、と手で追い払う仕草を取られて星さんともども奥の席に追いやられた。受付同様に青を基本として、やや暗い室内に、時々丸い光が宙を散歩する。綺麗、と光の織り成す演出を目で追いかけてしまう。

「私追加料金もケチるし客単価安くて嫌われてるの」

「なるほど……」

 そういうものなのか、と業種がまったく違う世界の感触を味わう。

「延長? しない! お酒飲んでいい? 駄目だ水を飲め!」

 やり取りを再現するように声色を変えて、それから星さんが大笑いする。

 確かに見事に嫌われそうな客だった。

「先生も油断するなよー。一杯奢るともういっぱいいいですかぁ? って甘えてくるから」

「んー、まぁ、そういう仕事内容でしょうからね」

 考えてみると変わった仕事だ。でも相手をいい気分にさせるなら、それも成立するのか。

 私が戸川さんのためにグローブを買ってきたようなものかもしれない。

 いや私は別に、戸川さんに貢いでいるわけじゃないし、はまってもないけど。

「あと店の女に手を出しかねないとも思われてるみたいでさ。酷い偏見だ」

「え?」

 ふん、と星さんが矜持を示すように鼻を鳴らす。

「私は背が低くておっぱいデカい女の子以外には手をつけんよ」

「はい?」

 欲望が裸で駆け抜けていったことに戸惑っていると、着飾った女性がスイと隣に座ってくる。距離の近さに面食らっていると、いい匂いと声と笑顔と挨拶が飛んできた。

「いらっしゃいませ。こんな綺麗なお客さんだとこっちが緊張しちゃいますね」

「あ、どうも……どうも」

 距離感、喋り、着飾り。キャバ嬢だ、と初めて直視して変な感動を覚えた。

 一方、星さんは頬杖ついて溜息を吐いている。

「やっぱお前かよ」

「ご指名ありがとうございまーす」

「なんで指名もしてないのにいつも指名料金取られるんだぁ?」

「一番いい子って店長に言ったでしょ?」

 澄ました顔で返されて、星さんが微笑む。

「いいね、その自信。そうでないと」

 星さんが私に、キャバ嬢の方を紹介する。

「あ、こいつ普通に友達なんだ。だからこう、ありがたみが全然ない」

「あんた友達じゃない子、この店にいた?」

「新人とかは流石に知らない子もいるよ。多分」

 キャバ嬢がお酒の用意をしながら、星さんへの愚痴をこぼす。

「この人、無駄に見た目がいいのを利用して生きてるんですよ」

「はぁ」

「顔がよくて悪いか」

 凄い自信だけど、それに値する容貌ではあった。その眉目の整い方はめったに見られるものではない。キャバクラ遊びしなくても正直、相手に困らない顔だと思った。

 でもキャバクラでしか得られないものがあるのかもしれない。

 そう、こうして煌びやかな女性に囲まれる世界に飛び込んだのだった。

 それから、どんどん記憶の輪郭が滲んでいくんだけど。



「先生だって自分のこと美人だとは思ってるでしょ?」

 お酒を入れる前から、そんな話をした気がする。

「私は、」

「私は先生の生徒じゃないんだ。本音で語ろうぜ」

「…………ちょっとだけ」

 さすがに生きてきて、ウケがいいなと感じたことは少なからずある。

「私から見ても先生美人だと思いますよ。近所の憧れるお姉さんって感じだもの」

 さらりと、年上を耳聞こえよく言うものだなと感心する。そういう言葉選びの上手さがプロというものなのだろう。お酒を注がれたグラスを手の中に収めたまま、ゆらゆら揺らす。

 それから、なにか、話が飛んで。この辺は、切れ切れの記憶になっている。

「先生はキャバクラに偏見持ってそうだもんね」

「偏見なんて……いえ、ちょっとは、持っているかもしれませんけど」

「そこで認めるのはなんていうか……真面目な人だねぇ」

 なんか、いつも言われることを聞いて。

「先生って、凛のとこの学校の先生なんだよね?」

「そうですけど、なにか?」

「いえ、いい学校ですね」

 急に目を逸らして口調が硬くなった。露骨に怪しい。

「あの学校のセーラー服かわいいよね。ブレザーも悪くないけど、やっぱ見る分にはセーラー服好きだなぁ」

 聞いてもいない好みをべらべら語って。ちょっと同意して。

「高校生にも手を出してるから、後ろ暗いとこがあるんでしょ」

「おいこら」

「高校生?」

 手を出す?

 なぜか私の胸まで痛いとこを殴られた気がした。

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