一章『潮の匂いが届かない』 その一
職業柄、制服姿を見かける機会は多い。だから余計、目に留まりやすかったのだろうか。思いの外長くなってしまった事務作業が終わる頃には夜更けを迎えて、校外では潮をほんの微か含んだ風が首筋を撫でてきた。
日中よりも夜の方が、潮風を感じられる気がするのはなぜだろう。
それはさておき、足を止めて一つ隣の通りへと目を凝らす。道が一本違うだけで、向こうの駅前の賑わいとこちらの寂寞で随分と差があるものだった。その暗がりに溶けるようにしながら、光に吸い込まれるように消えたその姿を反芻する。
夜に輝く店舗の明かりを背負うように、はっきりと映ったのは。
「目、合っちゃった」
名前は戸川さん。下の名前は確か、凛。今年から私の担当しているクラスの子だ。こんな時間に出歩くのもそうだけど、格好も高校の制服だった。誰かと連れ立つように歩いていて、ふとなにかを感じたようにこちらを向いて、私もまた、光が目に入って偶然そちらを見て……という流れだった。教師としては見過ごせない情報が多い出会いだった。
いわゆる、夜遊びに繰り出している最中かもしれない。
放っておいていいものだろうか。担任と教え子の距離感というか、どこまでを導き、どこまでを自由として見送ればいいのか。教師の当たり前の判断は、なかなかどうして難しい。
通行の邪魔にならないように道の端に寄ってから、悩む。真っ暗闇の壁に手でも置かれているように肩が重い。動くなら早くしなければいけないし、見なかったことにするのも、きっと遅くならない方がいい。
目が合っちゃったなぁ、というやや後悔にも似た偶然が頭をぐるぐる回っている。
制服を着ていなかったら、そもそもあの子が戸川さんだと気づかなかったかもしれない。まだ教え子たちが進級してから日は浅く、印象はお互いに薄い。向こうも、私を担任だと見分けることができただろうか。気づいていたらどうだろう、逃げてしまうかもしれない。
労働を終えて、本日まだ水曜日の夜。寄り道する元気が自分に残っているか、と俯きながら己に問う。ここで追いかけなくても、明日に学校でそれとなく尋ねる機会はあるだろう。
そういう甘えもふと浮かぶくらいの、仕事帰り。
夜の暗がりと、電気の少し尖った明るさに、一度目をつむり。
「……いー……きます!」
迷ったけれど、溜めた勢いで踏み出す。このまま帰って、家でスーツを脱いだとしても気になってしまうと思ったからだ。気になるなら、きっとなかったことにしない方がいい。
少なくともこのときの私は、そう思える程度に前向きで、余力があった。
引き返して、隣の通りへ道を逸れる。
夜を被って少しだけ知らない顔をしている、別の道へ。
ちょっと追いかけて見つからないようなら諦めて帰ろうと思いながら隣の通りに入ると、自販機の側にその人影がすぐ見つかる。ビルの角、借主募集中という貼り紙と共に照らされる戸川さんは、私を見てすぐにこちらへ寄って来る。私を待っていたような調子と動きだった。そのまま真っすぐ歩いて、私の前に立つ。立たれると、もたらされるのはほどほどの威圧感。
背は高めの女子だと認識していたけど、正面から向き合うと微妙に目線の高さが合わない。最後に測ったとき160にぎりぎり届かなかった私より、5センチは上だろうか。
しかし彼女はセーラー服を着て、私はスーツを着ている。
背の高さは、お互いの立場を証明するものではなかった。
「やっぱりいちごせんせだった。目、合ったよね」
背丈からするとやや落差を感じる、まだ幼さを含んだ声。悪びれる様子もない、温和な物腰。
教室で話す機会も早々ないけれど、時折見かける彼女はいつも緩く笑っている。軽く笑うか、大きく笑っているか。笑顔以外、見たことがないのではないだろうか。柔和な目元はどこか、人に慣れきった犬のような雰囲気がある。そしてその柔らかさと揃えるように、長い髪の先端も緩く曲がっている。ミルクティーのような色合いに染めたそれとよく噛み合っていた。
「苺原です、先生の名前を略さない。戸川さんはこんな時間に……それも制服」
「えーほら、当校への入学理由は制服のデザインが好きだからでー」
「通学鞄まで……家に帰ってないの?」
指摘すると、戸川さんが鞄を背中側に隠してしまう。追って指差そうとすると、戸川さんが身体の向きを変えて抵抗してくる。背中側に回り込もうとして、対応して、と不毛な鬼ごっこが始まる。基本、戸川さんの方が軽快に飛び跳ねるので裏を取れない。
余裕を持って立ち回られて悔しかったので少し粘ったけれど、結局諦めた。
降参を示すように後退して距離を取ると、へへー、と戸川さんがゆるゆる笑う。
「せんせぇの負け」
「そこはどうでもいいことに気づいたの。戸川さん、なにしてるの」
「んー、散歩」
「こんな時間に?」
「夜が好きだから」
受け答えに軽薄を感じてしまうのは、私の偏見だろうか。
「誰かとどこかに行こうとしていたみたいだけど?」
「さっきの人? あー、お姉ちゃん」
「お姉さん……ねぇ」
「嘘だと思うならさ、聞いてみたら?」
そこにいるよ、と戸川さんが近くを目の動きで指す。
姉と紹介された人物は、やや離れた位置にある中華食堂の表のディスプレイを興味深そうに覗いていた。その光に眩しくすら映るのは、根っこまで金糸のように美しい髪。こちらは染めている様子もなく、天然の金髪のようだった。
ジーンズにシャツだけの飾らない格好で十分映えて、それ以上着飾ると過多になってしまうくらいの存在感がその髪にはあった。つまるところ、金髪美女だ。
「おねーちゃん、ちょっと」
戸川さんがにこにこしながら手招きすると、姉が訝しむような顔つきで小走りしてくる。
取りあえず近くで見た第一印象として、戸川さんとまったく似ていない。
「はい? ええ、姉ですけど。そちらは凛の……」
「担任です。こんな夜中に見かけたので、一応の注意をと……」
「ああ先生……なるほどそれっぽい」
「ぽい?」
格好の話だろうか。
「え、先生?」
姉が急に顔色を変えて、戸川さんを一瞥する。正確には戸川さんの制服を確認するような視線の動きだった。なにを戸惑っているのか、こちらには伝わってこない。
妹の方はなにかを察したように笑っているだけだった。
「なにか……」
「いえいえ。いつも凛がお世話になっています」
「お姉さんなら、こんな時間に歩き回っているのを注意してくださいね」
「え、あー、本当ですよね。駄目じゃないか」
取ってつけたような浅い注意だった。「はいはい」と、戸川さんの頷きも適当だ。
「それじゃあ、凛」
「ん。今日はやっぱりいいや」
「んむ。じゃあまた今度ね」
そそくさと、逃げるように一人でどこかへ去っていくお姉さんに、溜息が思わずこぼれる。
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