一章『潮の匂いが届かない』 その二
「似てないお姉さんね」
「あ、それよく言われるー」
「髪の毛、戸川さんは金髪じゃないのね」
「お姉ちゃんはお父さん似なのかなー」
「……はぁ」
そろそろいいか、ととぼけ合うのを終わりにする。
「本当は、お姉さんなんかじゃないんでしょう?」
「あははは」
隠す気もない笑い方だった。
「友達だねー、ちょっと年上の友達。気づいてたらすぐ言えばよかったのに」
「あなたの嘘に快く付き合ってくれた人に悪いでしょう、そんなの」
それと、そこに言及するとややこしくなりそうという懸念もあった。今大事なのは教え子が夜に制服で出歩いていることで、交友関係は私が干渉するべきではない、と思う。
「せんせぇ、ちょっと面白い系の真面目かも」
「それより先生に平気で嘘ついたのを反省してね」
叱るように肩を軽く摘むと、戸川さんがこれまた、屈託なく笑うのだった。
友達を相手にするような表情なものだから、こちらもつい気が緩みそうになる。なるほど、と感じた。教室でのこの子の周りには、いつも人がいる気がする。誰かと楽しそうに話している様子を見かける。その人懐っこさに、なるほど、と思ったのだ。
でも私は教師なので、なるほどしているだけではいけない。
「どこ行こうとしてたの?」
「まっすぐ家に帰ろうとしてました」
ピッと、背筋を伸ばして凛々しさを意識するように言う。
「嘘を、つかない、の」
また肩を摘もうとしたら、今度はきゃっきゃと逃げ回ってくる。追いかけっこを楽しむほどの元気はこっちにないのに、逃げられるとつい追ってしまう。そしてまた追いつけない。
ふらふらと、弱った蝶のように駅前をさまよう。
戸川さんの方は一人踊るように、くるくると輪を描く。
「ご飯食べに行こうとしてただけだよ」
「行くにしても、制服から着替えて行きなさい」
夜の制服が醸し出す不健全さは一体どこから生じるものなのだろう。昼間にある爽やかさとはまったく異なる、しっとりとしたものがその肩やスカーフを覆っている。
「着替えに行きたいのは山々なんだけど、今お腹空いてて」
順番があべこべなことを言ってくる。
「お腹が空いているなら、なおのこと早く家に帰りなさい」
「家帰ってもなー」
戸川さんが困ったように目を逸らして笑う。その微妙な反応が、彼女の抱えた事情を微かに匂わせる。どこまでそこに深入りするべきか、これもまた、教師というのは難しい。
この話題は向こうも触れられたくないのか、すぐに切り替えてきた。
私としても、そっちの方が助かる。かもしれない。
「せんせぇ、質問いいですか」
小さく挙手してくる仕草がかわいらしい。
「どうぞ」
「なんで帰らないといけないの?」
「なんで、って」
根本的な質問をして煙に巻こうとしているのはすぐに分かった。でも、生徒の質問である以上、答えないわけにはいかない。ので、考える。生徒が家に帰らないといけない理由……親が心配する。これはなんとなく駄目そう。子供は夜に歩いていてはいけない。私より背の高い子供だけど。その慣れた雰囲気だと、夜の町を歩くのも珍しいことではなさそうだ。つまり私の方が実は危ない? 制服じゃなかったらまぁまぁまぁと流せる部分もあるけどやっぱり、夜に制服姿は見過ごしてはいけない危うさがある。でもそれを上手く言語化できない。
だから、つまり。
家は、帰るものだから。
「夜に出歩いていると危ないから」
考えがまとまらなくて、無難なものが出る。
「このあたり治安いいよ。おまわりさん、やることなくてずっと暇そうだもん」
「それでも暗いと危ないの」
戸川さんの言っていることは事実で、この観光地で大事件が起きることはまずない。殺人どころか窃盗騒ぎすら聞いたことがない。他の駅前と違って、居酒屋なりその他なりの客引きの姿もなく、健全ではあった。でもそれを先生としては認めてはいけない。
「んー、理由としては弱いかな」
納得させてくれないと帰らない、といった雰囲気だった。問答してないで首根っこを捕まえて家まで連れていきたいところだけど、体格差で難しそうだった。戸川さんは手強い。
「ん……」
こういった校外での生徒指導というものには経験不足が浮き上がる。
生徒……生徒…………生徒なら。
「そもそも」
夜とかそういうのをぶん投げて、時間にだけ注目する。
「あなたは学生なので」
「ふんふん」
「帰って、勉強しなさい」
学生の本分を全うせよ、と教育を示す。
それを受けて、「あっ、はっはっは」と戸川さんが大笑いする。
「うん、それはせんせが正しいね」
気持ちのいい笑い声をあげる子だった。
「それじゃあ、今日はこのまま帰って勉強しようかな」
「本当に?」
「せんせが信じてくれたら、嘘つかないよ」
試すようにそんなことを言ってくる。ここまで結構嘘ついているからなぁこの子、と訝しみつつも。
「信じる」
「うん」
遠くで私と目が合っても逃げなかったこの子を信じようと思った。
戸川さんが右足を緩く、大きく振ってその動きに引きずられるように身体の向きを変える。そして、夜と明かりの間で静かに笑う。
「潮の匂いがするね」
「……そうね」
戸川さんが感じた風の流れを共有して、夜を見上げる。
海と星の狭間を走る風に吹かれて、鼻の奥が少しむず痒い。
「せんせも早く帰んないと駄目だよ」
「教え子を見かけなかったらまっすぐ帰るつもりだったの」
「わたしはせんせぇとお話できて楽しかったよ」
にこっと、常日頃から周りの男子たちを誤解させていそうな笑顔と口ぶりを披露してくれる。家まで送っていった方がいいのだろうかと考えている間に、戸川さんが通学鞄を振りながら離れていってしまう。こんな時間まで家にも帰らず、外でなにをしていたのか。
友達と遊んでいたというならまだ分かるけれど、戸川さんは今一人だった。
「せんせ」
独特の発音で呼ばれて、顔を上げる。戸川さんが、花束を抱くように笑顔を掲げていた。
「おやすみなさい」
「え、はい……おやすみ。まっすぐ、気をつけて帰ってね」
戸川さんは嬉しいものをぎゅっと挟むように、目を細めて笑う。直視するには背景の明かりよりも眩く、目を逸らしそうになった。無垢で、幼さと可愛げの天然の配分に満たされた笑顔。
その笑顔を残して、戸川さんがようやく帰路に就く。……多分。
家がどこにあるかは分からないので、見送りながらも確証はなかった。
横道に逸れないかと見送る、戸川さんの後ろ姿。
制服のスカートが、足の動きに応じて細かく波を描いている。
「………………………………」
頭を緩く振って、戸川さんから目を離す。
夜を鼻の頭で撫でると、また潮の匂いが少し入り込んでくる。
「………………………………」
心の内に訪れた、些細な波が崩れていくのを見届けてから。
夜に迷える教え子を一人、帰り道へと導いた。
だから、きっと、正しいことをしたのだ、と思って逸れた道から引き返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます