一章『潮の匂いが届かない』 その三
高校生のとき、友達の付き合いでアイドルの握手会に行ったことがあった。アイドルと言っても恐らくはそこまで日の当たる存在ではなく、地方のちょっとした集いというか、それくらいの活動規模のグループだったのだろう。名前を聞いたこともなかったけれど、電車に乗って現地の小さな会場に着くと、そこそこの人数が並んでいた。
握手会を始める前に、アイドルたちが踊りと歌を披露するらしく、会場の熱気に私だけ置いてきぼりになっていた。友達は慣れたように会場に馴染み、連れてきた私のことなど忘れたように盛り上がっている。仕方なく壇上をぼーっと見上げていたら、過剰に思える明かりの中で、更に眩しいものを見た。
アイドルたちの訓練を感じる振り付けの正確さとステップ、そして短すぎるスカートとそれを考慮しないような大胆な足の動きに面食らった。隠す気もなさそうで、見てはいけないものを見てしまっているようで、目の置き場に困り、それでもなぜか逸らせなくて、独りぼっちを嘆くような心臓が孤立した痛みを訴えていた。喉の渇きと得体の知れない渇望が繋がって身体を蝕むそれは、後にも先にも経験することのないものだった。すっかり忘れていたその不可解なものが今夜、ふとその懐かしい顔を覗かせる。
それから握手会が始まって、私は参加しなかったけれど遠くからその様子を眺めていた。その中で一人、傍から見ていても違うなって感じる子がいた。かわいいとか美人とか、そういう部分とはまた異なるなにかを持っているように感じられた。向かい合った笑顔が胸の底を掬い取るような、不思議な高揚感をもたらす。
別れ際の戸川さんの笑顔が、何故かそんなことを思い出させた。
「………………………………」
浴槽に浸かっている時間が、随分と長くなってしまった。棺にでも横たわるような気分で沈んでいた手足を起こして、浴槽から出る。お湯を抜きながら、そのままお風呂掃除に着手する。
お風呂に後に入った方が掃除をするルールだった。今のところこのお風呂を使うのは二人。それがいつか三人になるかもしれないし、四人にだってなるかもしれない。
「…………………………かもね」
浴槽の内側をごしごし磨いていく。疲れているときは、頭と行動を切り離してどっちも自動で進行していくことが多かった。繋げて連動させるとどちらにも負担が増すので、それを避けようという働きなのかもしれない。
そのまま明日の朝ごはんの用意について考えながら、風呂を掃除し続けた。
風呂掃除を終えて、腰を伸ばしながら洗面所のバスタオルを取る。柔軟剤の少し甘い匂いを吸い込んでから、湯気にまみれた身体を拭き始める。浴槽より適当に水滴を拭ってから寝間着に手足を通して、リビングへ向かった。
「おつかれー」
床に座り、背を丸めて爪切りしている夫が音を鳴らしながら声をかけてくる。夜に爪切りをするとよくないという迷信があったのを思い返しながら、ソファーに座って髪を拭き始める。
「扇風機どうぞ」
「ありがとー」
夫が爪切りを一旦置いて、扇風機をこちらに向けてくれた。五月の風呂上りは、太陽の向こうに控える夏の姿を僅かながら感じ取れる。夜の町を歩いていても風を辛くは感じなかったな、と今頃そんなことを振り返った。
髪を前へ垂らすように拭きつつ、前屈みになる。ソファーに深く寄りかかったらそのまま意識まで横になりそうだった。
「んー、猛烈に眠い……」
「髪乾かしてから寝なよ」
「分かってるー」
結婚してから四年と少し。新婚からは遠ざかり、円熟には程遠い。これまで大きな問題もなく、舗装された道をちゃんと歩けている自覚はあった。夫との当たり前は、とても肌に馴染む。
背負うような疲労と体温の移り変わりの中で、そういう日常にほぅ、と安堵の息を吐く。
子供はまだ授かっていない。そして我が子を腕に抱く自分の姿を、まだ想像できない。
「今日は結構遅かったね。そんな忙しい時期だったかな? 教師の繁盛期……いつだ?」
「こんな時間に外を歩いてる女生徒がいたから指導してたの」
「先生ってば真面目だねぇ」
本日二度目の真面目評を頂戴してしまった。昔から、私はそう言われることが多い。当たり前のことを後回しにしないでやっているだけだと言ったら、真面目ってそういうことだろうと言われたことがある。じゃあみんなは、他になにをやっているのだろう。
私はそういうのを見つけるのは得意ではない。
「夜遊びってやつ?」
「んー、どうなんだろう……」
一緒にいた相手は女性だし。二人で揃って、という私には想像もつかない世界があるのだろうか。どこに行こうとしていたかは聞けなかった。今日は素直に帰ったと信じるとして、これからも戸川さんが夜間に遊び歩いているようなら、私はもっと干渉していくべきなのだろうか。
「あと教師が忙しい時期は、人にもよるけど私はやっぱり学期末」
「じゃあただ忙しいだけか、わはは」
「笑うところあった?」
そう言いつつ、私もバスタオルの奥で少し笑う。
「あ、思い出した……」
前髪を摘むように拭いていたら、あの自称姉を以前に見かけた記憶が蘇る。休日に人力車を引いている人だ。金髪の女性が車夫をやっているものだから、時々、話題になって取り上げられることがある。戸川さんと姉妹というのはないとして、どういう知り合いなのだろう。
戸川さんの夜の外出も今まで知らなかったし、当然なのだけど私が知っているのは教壇から見下ろせる一面だけ。
生徒への情報は平面で、でも教師をやっていくだけならきっと、それで十分なのだろう。
爪切りを終えた夫が隣に座り、テレビの電源を入れる。それから切った爪の仕上がりを確認するように顔を近づけて指を弄る仕草を見ていると、つい笑い声が漏れてしまう。
「なに?」
「猫みたい」
「俺犬の鳴き真似の方が自信あるよ」
そんな話を誰がしたのだ。
「ちょっとやってみて」
でも聞いてみたくなった。始める前から少し得意げな夫が、自慢の犬の鳴き真似を披露する。
「……………………………………」
やたらに鼻息の荒い犬だった。
「縄張り争いでもしているの?」
「最近やってないからクオリティが落ちたな」
ふぅむ、と夫が頬杖をつきながら反省する。
「明日から頑張ろう」
「職場ではやめてね」
「きみはあれやってあれ」
夫が子供みたいにせがんでくる。「えー」と最初は難色を示したものの、結局喉の調子を整えてリクエストに応えた。
少し間違えるとウシガエルの鳴き声になりそうなそれが、自分の喉から溢れる。
私が一番似ている鳴き真似は、マ〇クラのゾンビだった。
わっははは、と夫が満面の笑みで評価する。
「超似てる、誇っていいよ」
「他の人に自慢する機会ないけどね」
職場の教員とどんな流れでこんな話を始めることがあるのか。
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