第36話
そんな時、佐々木は同じ会社で事務員をしていた女性と恋に落ちた。高度成長期の真只中。人類が月を歩き、大阪では盛大なる博覧会が開かれ、ついに沖縄が返還されることが決まった頃のことだ。
「猫のような大きく目をしていてな。美人だった。ワシより十以上も若くて、最初はすこし気が引けたがな」
彼女には両親も家族もいなかったが、いつも笑顔で、竹を割ったように清々しい女性だったと老映写技師は言う。籍を入れることは、当然、出来なかったが、彼はその女性と所帯を持ち、子供も一人もうけたという。
「残念ながら娘は妻には似ず、ワシに似て目が垂れとったわ」
その頃から佐々木は妻の姓である楢崎を名乗るようになり、それからの二十年程は、恙なく幸せに暮らしたそうだ。
そして、長らく続いた好景気が終わりを迎え、世間でいわゆるバブルが崩壊したと言われ始めた頃のことである。
「娘が結婚することになったんだよ」
老映写技師はまぶたを閉じて娘の顔を思い出しているようだった。
「それまで、あまりに普通だった日常に、少し浮かれていたのかもな」
と老映写技師は言う。自身が書類上では死んでしまっていて、戸籍もない人間であることをすっかり忘れていたとのことだった。
ただその時、改めて現実に立ち戻ったのとのことである。
――このまま一緒にいてはいけない――
もし興信所か何かに自分のことを調べられたら、娘の将来に傷がつく。結婚も破談になってしまうかもしれない。認知することも出来ず、娘は書類上私生児になってしまっているのだから。すべてはあの時に逃げ出した自分の責任である。
佐々木――楢崎はそう思った。
そして、佐々木――楢崎は、出来る限りのお金を残し、無戸籍にも拘らず長く雇ってくれた会社に退職願を出すと、妻と娘の前から姿を消したのである。
「ここに流れ着いたのはその頃だ」
老映写技師は顎をしゃくって、桜が咲く公園をさした。
老映写技師はホームレスとなり駅前キネマ館の道向かいにある大きな公園に住んでいたとのことだ。
戸籍がなかったのもあるが、足を引きずって歩く五十を過ぎた男に、新たな働き口を見つけるのは難しいことだったのかもしれない。
そして公園に住み始めて半年ほど経った頃。
すでにすっかりうらぶれてしまっていた佐々木――楢崎を、かつて呼ばれていた佐々木昇の名で呼び止める声を聞いた。
故郷を出て、戸籍がないと知った時に捨ててしまった名前だった。妻と結婚してからはその姓を借りていた。妻も娘も世話になった会社すら知らない名である。
驚いて佐々木が振り返ると、それは軍時代の上官だった。彼の機体から燃料漏れが発覚した時、○ノ巣飛行場へ引き返すよう命令を下した隊長だった。
『佐々木! やはり貴様だったか』
隊長は、佐々木をひしと抱きしめた。『良かった、会えて良かった』と背を叩き、『ずっと探していたんだぞ』と老齢の紳士が子供のように涙を流していた。
終戦後、生き別れた部下の安否が気になっていた隊長は、新聞社などの伝手を使って、当時の部下の行方を探していたのだと言う。
だから佐々木が生きていることを、佐々木の故郷の元妻から聞いて、知っていたのだ。ただ行方知れずであり、どうにかして会えないものかと、定期的に新聞に顔写真入りで広告を乗せていたとのことだった。
そして遂に一報が入った。
――写真の人物に似た男がすぐ近くの公園にいると――
ただ佐々木にしてみれば、それどころではなかった。これまで隊長以下仲間たちのすべては、沖縄で特攻で散ったと思っていたからである。それなのに突然、死んだはずの隊長が目の前に現れたのだから。
「ついにお迎えが来たかと思ったわ」
老映写技師は愉快そうに笑った。
そんな佐々木の気持ちなど構うことなく、隊長は若かりし頃のように肩を組み、佐々木を車に押し込むと、そのまま隊長の自宅へと連れ帰ったのである。
浮浪者生活で垢まみれだった佐々木は、そのまま風呂へ入れられ、用意された綺麗な服を着せられた。
そして床の間のある立派な座敷へと通されると、そこには酒と豪華な料理が並んでいた。
『まあ、一杯』
グラスにビールを注ぎ入れられ、その瞬間に当時に立ち戻ってしまっていた佐々木は、冷たいビールを喉の奥に一気に流し込んだ。
――上官と酌み交わす酒は即座に飲み干す――文字通りの乾杯である。軍時代に叩き込まれた習慣が三十年近い昔の記憶を呼び起こさせたのだ。
そして一息つくと、のこのこ生き残った挙句に浮浪者にまで成り下がっていたことが、情けないやら、恥ずかしいやらで、佐々木は『申し訳ありません』と涙ながらに繰り返した。
すると座敷のふすまを乱暴に開け放って、また別の男が入って来た。
『やはり貴様も生きとったか』
感動と嬉しさが迸るような絶叫だった。
男は力の限り佐々木の肩を掴み、顔にある穴という穴から液体をまき散らした。それを見た隊長もまた手で顔を覆って涙を堪えるように肩を揺らしていた。その男も、共に○ノ巣飛行場を飛び立った仲間だった。
「大の男が、まるで子供のようにはしゃいどったわ」
と、老映写技師はしみじみと言った。
そして皆で酒を酌み交わしながら、これまであった様々なことを語り合ったそうである。
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