第16話
『五月二日、十五時 喫茶ヤブサカ』
それから数日後、オレの都合は一切訊かれることなく、日時と場所だけを示した素っ気ないメールが届いた。
ゴールデンウィーク真っ只中の心地よい春先だったにも拘らず、オレの足取りは重かった。配達で使っている白いハイエースをいつものコインパーキングに停めると、待ち合わせ場所である『カフェ・やぶさかでない』へ向って歩いた。
モンチが今の会社で働くようになってからずっと通っているお気に入りの喫茶店だった。街の中心から一本外れた旧道沿いにあり、八百屋や魚屋などの地元に密着した古くからの商店と共に建ち並んでいた。
その角にある小さなビルの一階に『カフェ・やぶさかでない』はあった。ビルとは言っても細長い三階建てで、何となくだが、外観が『駅前キネマ館』に似ていた。おそらく同じ時期に建てられたものなのだろう。
店先は小綺麗に改装されてはいたが、ビル全体を見渡せば、所々に浮かんだ雨だれのシミなどが目立ち、古さは隠せなかった。
――『喫茶ヤブサカ』は繁盛はしているとは言えないが、落ち着いた雰囲気のある店。愛想は良いが無口なマスターが、美味しい珈琲を提供してくれる。この手の古い喫茶店には珍しく、常連と私のような一見との区別がないのも良い。昼下がり少し遅い時間に昼休みをとる私にとって、ここは誰からも邪魔されない憩いの場所――
と言うのがモンチのレヴューであるが……。
モンチに呼び出されてからここへ来るようになったオレは、もう随分前からすっかり常連扱いされていた。確かに珈琲はそこそこ美味い。店の佇まいもそれなりに雰囲気はある。いや、あった。
けれどモンチが言うような孤独を楽しむような店では決してなかった。
マスターが無口などとんでもない話で、珈琲へのこだわりより、むしろ話好きが高じて店をやっているのではないかと思えるほどお喋りだった。
この喫茶店は常連と一見の区別どころか、誰でも忽ち常連にされてしまうような、めちゃめちゃフレンドリーな店なのだ。
それを、なぜいろいろ勘違いしてしまっているかと言うと、モンチがここへ来る時間帯にあった。
まずこの店はけっこう繁盛している。ランチの時間帯はマスターがてんやわんやする程で、バイトが欲しいと嘆くぐらいだった。
そして、ランチ客が引けた午後三時頃から五時くらいまでの間、一旦休憩するのだ。
その間に、マスターは遅い昼食をとったり、夕方からの営業の仕込みをしたりするのだが、モンチが訪れたのはそんな時間だったという。表のドアに『準備中』の札がかかっていたにも拘らず、当り前のように入って来たモンチは、珈琲とこの店オリジナルのチーズケーキを注文したそうだ。
けれど、マスターは、まるで悪びれないモンチのその態度に気圧され、ついそのまま対応してしまったとのことだった。それからもモンチは決まって、この時間に店に来るようになり、ついにはモンチの為に『準備中』の札をかけなくなってしまったのだそうだ。
つまりはマスターにとって、モンチはすでに常連客だった。これまで話したことがないのは、彼女の猫のようなキツイ目に臆して、たんにモジモジしていただけなのである。
それでもモンチと何とか仲良くなろうと、幾度となくアプローチは試みられていたが、毎度空振りに終わっていた。
「いつもチーズケーキを大きく切って出してあげてるんだけどぉ、何も言ってくれないんだよぉ。」
その程度のさりげないサービスにモンチが気づくはずもなかった。
それどころか、マスターは昨年の春に婚活パーティーで知り合った女性と結婚した。それを機にこの喫茶店は劇的な変化を遂げていたが、おそらくそれにすら気がついていない。
まず店名だが、『喫茶ヤブサカ』から『カフェ・やぶさかでない』に変わっていた。『ヤブサカ』とはマスターの苗字であり『藪坂』と書く。先代であるマスターの父親が付けた名で、三十年程使われてきた屋号だった。
それを結婚後間もなくして店を手伝うようになった奥方が、『ヤブサカ』だけではケチな印象があって宜しくないと、店名を変えるよう主張したのだそうだ。
するとマスターは惚れた弱みか、はいはいとその申し出を受け入れ、己の苗字を否定するが如く、『~でない』という打ち消しの言葉を付け加える暴挙に出たのであった。
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