第10話

 ただオレは自身が研修を受けた時のことをスッカリ忘れてしまっていた。だから、当時、必死で書き込んだメモを捨てずに取って置いて良かったと思った。


 映画配給会社から円柱形の缶ケース数本に分けて送られてくるフィルムの繋ぎ方。その繋いだフィルムを映写機にセットする方法。また上映中のトラブルで、フィルムが切れた場合の対処の仕方など。メモを見ながらたどたどしく教えていった。


 なぜなら、この一年、それらの仕事はすべて老映写技師たちがやっていたことであり、オレ自身は実際には何もしてこなかったことだったからである。


 そして、これだけはオレにしか教えられないことであり、くれぐれも映写室に籠りすぎないことを忘れずに付け加えた。


 それでも映写機の細々としたメンテナンスについては、メモを見てもよく判らないことがあり、勤務時間外だったが、老映写技師の一人に協力を仰ぎに行った。モンチが『駅前キネマ館』に初めて来た時、扉をぶつけて通りすぎていったあの老人である。


 老映写技師は、映写室の片隅にあるゴチャゴチャした古い機材の隙間に置かれた折り畳み式のパイプ椅子に小さな体をすっぽり嵌めるように座っていた。黄色い豆電球のついたヘッドライトを頭に装着し、それまで読んでいた文庫本を手にしたまま首を傾げた。


 「そんなことを知ってどうする?」


 「後任者への引継ぎで、会社から教えておくように言われたのですよ」


 オレが愚痴をこぼすかのように溜息混じりに言うと、老人は鼻で笑うように答えた。


 「知らんでかまわん。そんなことはオレらがする」


 そして老人は口の中で飴玉をコロコロ転がすと、考える様にしばらく宙を眺め、「どっこらしょ」と勢いをつけて、穴から突然出てきたミーアキャットのように立ち上がった。


 「まあ、いい。ちょっとこっち来い」


 右足を引きずりながら歩き出した老映写技師は、そのまま映写室の扉を開けて、すぐ目の間にある階段を登って行った。


 この映画館は一階にロビーと映画を鑑賞する為のホールがあり、そのホールの分厚い観音扉のすぐ右に映写室へとのぼる階段があった。階段は五段ほどで正方形の踊り場になり、そこに二本のパテーションポールが置かれ、やや色褪せた金色の組紐がぶら下がっていた。明記されてはいないが、これより先は関係者以外立入禁止だと判るように。


 そこから九〇度、出入口側へ向かって十七段の階段があり、そこにある長方形の踊り場は、映画ポスターなどの備品を置く為の場所になっていた。さらに旋回して二十二の階段をのぼったところに分厚い鉄製のドアがあり、その奥が映写室だった。


 この建物に窓はなかった。また階段には足元を照らすだけの淡いライトがあるだけで、階段から映写室の前に至るまではずっと暗闇なのだ。映写室のドアを開閉しても光が差し込まない為の処置である。


 老映写技師が、片足ずつ慎重に登っていくその真っ暗な階段の先にあるのは屋上だった。屋上へ出る為のドアは常に施錠されていた為、オレは一度も行ったことがなかった。


 老人はズボンのポケットからカギを取り出すと、ドアノブの中央にある穴の中へ差し入れ、この映画館唯一の禁断の地とも言えるその扉を開けたのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る