第32話

照和二十年六月。海軍に所属していた若き映写技師――佐々木昇(ささきのぼる)は福○市東部にあった○ノ巣飛行場に一時待機していた。そこで鹿児島にある飛行場へ向かうよう命が下ると、彼は仲間と共に戦闘機に乗って飛び立った。


ところが離陸して間も無く、彼の機体に不具合が生じた。燃料漏れだった。このまま飛び続けても鹿児島へは到着出来ないという隊長の判断で、彼の一機だけが、隊を離脱して○ノ巣飛行場へ引き返すことになった。


十把一絡げに零戦と言ってもいろいろあり、佐々木にあてがわれていた機体は古く、性能もそれほど良くはなかった。


彼の機体は○ノ巣飛行場へ辿り着く一歩手前で、あえなく力尽き、博○湾に不時着してしまったのだった。


佐々木は海にプカプカと浮いて、ゆっくり沈んでゆく愛機を眺めていたそうである。


 「そん時、急にバカバカしくなってなぁ。命が惜しくなったんだ」


 老映写技師はタバコを燻らせながら言った。


 仲間内では――鹿児島から沖縄方面へ特攻――という噂はすでにあったそうだ。


 また遠からず日本が戦争に負けるであろうことも、若き老映写技師は知っていたそうだ。それは軍にいたから持っていた特別な情報ではなく、その時すでに大方の国民が敗戦濃厚であることに気がついていたのだと言う。


 現在において、戦時中のことが語られる時、国民は軍や一部の政治家によって洗脳され、祖国の勝利を盲目なまでに信じて疑わなかった。などと論じられているが、当時を生きた人間からすれば少し違和感を覚えるらしい。


 「日本人はそんなにバカじゃないぞ。まあワシも――神国日本が負けるはずがない――などと口では言っておったがな」


 つまり、そこには日本人特有の本音と建前があり、戦後はその建前のみが歴史として残り、あたかもそれだけが真実であるかのようになってしまっているのだと、老映写技師は言った。


 老映写技師は肺いっぱいに煙を吸い込むと、溜息と共に放出した。


 「そして、ワシは逃げだしたんだ」


 老映写技師は笑っていた。自嘲気味ではなく、思い出し笑いでもするかのように。


 「でも、救助船が来るでしょ? ふつう」


 「いやワシは来んと思っとった。兵隊一人を助ける為に油は使わんよ」


 オレの質問に老映写技師は苦笑する。


 当時、―油の一滴は血の一滴―と言われていた時代だった。整備兵が給油中に一滴でも溢そうものなら上官による鉄拳制裁ののち、三日程食事を抜かれた程だったらしい。





佐々木は、誰にも見られぬように泳いで陸へ戻ると、夜を待ってそのまま山中奥深くへと入っていった。その山は訓練中、上空から何度も眺めていた山だった。もし隠れ潜むならば、ここだと前々から決めていた場所だった。


それからは戦争が終わるのをひたすら待つ日々が続いた。


 「食うもんにはホント困ったわ」


 終始楽しそうに話す映写技師だったが、その時だけは渋い顔をした。敵だけでなく味方にも見つからぬよう潜伏しているのだから、火が使えなかったのだ。もし煙でも立とうものなら、即刻見つかってしまうからである。だから食べられそうな物は何でも食べ、生き延びることのみに執着したそうだ。




ところが佐々木は、戦争が終わったことにしばらくの間、気がつかなかったと言う。


無論、終戦は照和二十年の八月十五日だが、九月になっても、十月になっても、米軍機が上空を飛んでいたからであった。負けるにしても、まさか占領されているとまでは思ってもみなかったのだ。


そしてついには山中に雪が降るようになった。


冬と言うには、まだ早かったが、山で食べられるものがなくなると、佐々木は山の麓まで降りた。


人に見られるリスクはあったが、背に腹は代えられなかった。前三日間ほど、水以外の物を何も口にしていなかったからだ。


そして、なるべく人里を避けて、渓流沿いを歩いていたところ、崖の上にサルナシの実がなっているのを見つけた。


サルナシとはプチトマトぐらいの小さな果実で、割るとキウイフルーツとよく似ている。漢字にすると猿梨。


とにかく腹が減っていた佐々木は、久しぶりに食べられる物を見て気が急いていた。その辺に落ちている竹か木枝を使って採れば良かったものを、つい勢い任せに崖を駆け上ってしまい、サルナシの実に手が届こうとした瞬間に足を滑らせたのだった。そして、そのままゴツゴツした川石に脚をしたたか打ち付けてしまったのである。


 「脚を怪我したのはその時だ。だから戦争で怪我したわけじゃない」


 老映写技師は右足を摩りながら言った。





右足に激痛が走り、佐々木はその場から動けなくなってしまった。脚は曲がってはいけない方向へと曲がり、骨折していることは医者に見て貰うまでもなかった。


このままここに居続けていては、いずれは人に見つかってしまう。かと言って山に戻ったところで、この状況では、飢え死にするか、山犬に喰われるのが関の山だった。


ここが潮時だと、佐々木はついに観念した。


そして近くの民家まで這うように歩き、助けを求めたのだ。勿論その後は軍に引き渡され、脱走兵として処罰されることも覚悟していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る