第7話
「駅はそっちじゃないですよ」
「知っています」
女性は足を止めることはなかったが、ようやく返事をしてくれた。
「どこへ行くつもりですか?」
「どうして、あなたに言う必要があるのですか?」
「でも、そっち(風俗街)はすこし危険だから……」
すると女性の脚はピタリと止まった。そして振り返ると、首からマフラーを掻きむしるように取りながら言い放ったのである。
「もう電車なんてないわ。映画館で朝まで過ごすつもりだったけど、あなたがそれを邪魔したんじゃないですか」
その時、オレは初めてその女性の顔を見た。美人だった。可愛らしいと言った方が良いかもしれない。細面の小さな顔に猫のような丸い目と顔の中心にチョンと尖った小さな鼻。眉根に皺を寄せて、結んだ唇を軽く突き出していたので、怒っていることは十分伝わったが、それまで感じていた大人の女性という印象とはまるで違った。
「そう言われても、困りますが……」
オレが頭を掻きながら「ではタクシーを」と言うと、「お金が無いです」とかぶせるように言い返された。
ポケットを弄って財布を取り出してみたが、お札は一枚も入っておらず、とりあえず小銭を全部手のひらに乗せてみたが、遠慮なく覗き込んで来た女性は、残念そうに「足りない」と首を振った。今ならコンビニに行けば、いつでもお金を下せるが、当時はそんな時代ではなかった。
「どこか泊まるあてはありますか?」
女性は俯いて首を振った。
「もし良かったら、ウチに来ます? 何もありませんが……」
とまあ、そうは言ったものの、十中八九断るだろうと思っていた。
彼女の顔を見る以前程ではなかったが、オレにも少し警戒心があった。真夜中にポルノを観に来るような女性なのだ。だがそれは彼女とて同じであり、オレは先程初めて会ったポルノ映画館勤めの若い男なのである。
女性の顔は一瞬明るくなったが、案の定すぐに表情を曇らせた。そして、そのクルクルと良く動く目玉で、オレを見定めるように、下から上へと舐めるように目線を往復させた。
「あなたは、良い人ですか?」
「自分ではそのつもりですが……」
「何もしません?」
「それは約束しますけども……」
そして、十秒程オレを睨みつけた後、女性は「では、お願いします」と頭を下げたのである。
くれぐれも言っておきたいのは、この時のオレに下心など一切なかったということだ。
錆びれたこの辺りでも、この一区画だけは早くから再開発が進んでいた。背の高いマンションや都会から進出してきた大手予備校などのビルが建っていた。その窪みに取り残されたようにあったのが、オレの住むモルタル二階建ての古いアパートだった。駐車場付きで三万円はこの辺りであっても破格だった。陽があたらないことを除いて、全く不満はなかった。
「ホントに何もないんですね」
六畳一間にはベッドとテーブルと小さな電気ストーブしかなかった。テレビや冷蔵庫などの生活用品は大学を辞める時にすべて売り払ってしまった。東京からこのアパートに持ってきたのは、高校生の時にバイトして買ったギターと、故障したままになっている車だけだった。ベッドとテーブルだけはすぐに買ったが、その他は追々買い揃えるつもりで、結局一年近く経っていた。電気ストーブは、心配した母親が、近頃送ってくれたものである。
「わぁ、ここ便利ね。それって私の通う予備校でしょ?」
窓を開けた女性は、古いアパートの日照権などお構いなく南側にそびえ立つ白い壁を指して言った。もちろんオレが越してきた時にはすでにあったもので、だから安く借りることが出来たとも言える。
「えっ? そこの予備校の生徒ですか?」
「映画館で学生証を見せたでしょ」
確かに身分証のような物を顔の前に突き出されたが、身分以前の問題であり、見ているようで見ていなかった。
そしてあらためて差し出された学生証を見ると、オレと同じ歳ということが判った。
それから一時間程は、当時のオレの主食であるスナック菓子と冷えていないコーラで彼女をもてなしながら話をした。どんな話をしたのか、あまりよく憶えていないが、おそらくは夜のポルノ映画館はとても危険であり、悪気があって追い出したわけではないというような、言い訳をしていたのだと思う。
そしてその日は彼女にベッドを譲って、オレは畳の上で毛布に包まって眠った。
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