第6話
館内に入って来たのはこの映画館に古くから勤める映写技師だった。実齢は不明だったが、おそらく八十前後だろうと思われた。右足を引きずって歩く。とにかく普段から無口な老人で、会話らしい会話をしたことはなかったが、戦争で怪我をしたらしいということをモギリのおばあさんから聞いていた。
よほど驚いたのか女性は茫然自失で老映写技師を目で追っていたが、ハッと我に返ったように「ちょっと待ってください」と呼び止めた。
けれど老映写技師は、振り向くこともなく、そのまま映写室がある二階へと消えていった。
「では、あがります」
オレがそう言うと、もぎりのおばさんは合点承知とばかりに深く頷き、受付カウンターに置きっぱなしになっていたお金をオレに素早く渡した。この老映写技師の出勤は、オレの勤務時間が終了したことを意味するのだ。
そしてオレは、階段の方を見たまま立ち尽くす女性を、開け放ったままになっていた入口に向かって押し出した。
「すいませんね、ウチの年寄りが。ちょっと耳が遠いんですよ、たぶん」
女性は「もう、なぜよ」と怒りの声を上げて、オレの手からお金をもぎ取ると、そのままそっぽを向いて歩き始めた。
「チェッ、めんどうくせぇーな」
その頼りない後ろ姿を眺めながら、オレは舌打ちした。もちろん、このままお別れ出来るのならば、それに越したことはなかったが、この辺は夜中に女性を一人歩きさせられるような場所ではなかった。
もうすぐクリスマスだというのに、ひとけのない通りにはイルミネーション一つなく、寒々しい青白い街灯がチカチカ灯っているだけだった。静けさの中で、強風に煽られたブルーシートがバタバタ鳴る音だけが耳についた。
「駅までお送りしますよ」
女性からの返答はなかったが、代わりに怒りのこもった足音を響かせた。
駅前キネマ館は『駅前』と冠していたが、実際は駅前にはなかった。
ただその名が誇張や嘘で付けられたわけではなく、戦後まもなく映画館が出来た当初、つまり昭和四十年代に駅が南の方へ移転するまでは、紛れもなく駅前だったのである。
くすんだ古い雑居ビルばかりのこの辺りも、かつては繁華街だったのだ。たくさんのホテルや飲食店が軒を並べ、この界隈の戦後復興の拠点となった場所だった。
駅という太陽を失ってからは衰退の一途を辿った。
ホテルや飲食店の大方は潰れ、東京や大阪の大手企業の支社支店は新しい駅へ移り、空家となった雑居ビルには風俗店が入った。何とか生き残った旅館やホテルもラブホテルに姿を変え、大衆映画を上映していた『駅前キネマ館』もまたポルノ映画館へ鞍替えした。
それは仕方がない選択だったのだろうと思う。枯れ果てた通りに根を張るには、日陰でも育つ植物に成り替わるしかなかったのだろう。
映画館の前にある大きな公園は、その駅があった跡地だった。そこで遊ぶ子供たちの姿はない。ブルーシートと段ボールで出来た小屋が、所狭しと建ち並んでいたからだ。
その後、何度か部分的に再整備され、新しいビルも建っていたが、やはり夜は少々物騒なところがあった。
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