第35話
「何だか、切ない話ですね。それで引き下がったのですか?」
「いや、すぐには出ていかなかった。どうしても諦めきれなくてな」
翌日、佐々木は、父や母そして妻を一目見てから故郷を去ろうと決めて、少し離れた空き家から実家を見張っていた。従兄が仕事で不在であることは知っていた。
夕方になって自転車に乗った振り売りの豆腐屋がラッパを吹き鳴らしてやって来ると、実家の勝手口から妻が出て来たのである。その顔を見た途端、何も考えることが出来なくなっていた。妻から視線を外すことなく、ただフラフラと妻の前に姿を現したのである。
「それは驚いたでしょうね?」
オレの問いに老映写技師は、その時の様子を思い出したかのように笑みを噛み殺すと、深く頷いた。
そして、佐々木は、そのまま妻の手を引くと、隠れていた空き家の中へ連れ込んだのだった。
「そこでワシは妻を抱いた」
「あー、やっちゃったんだぁ」
「その時のワシは、――どっちがええ? ワシとあいつのどっちがええ?―― ずっと、そう訊いとったよ」
老映写技師は自身を嫌悪するように苦々しく笑う。
『帰って来たんやね、生きていて良かった。アンタがええ。アンタの方がずっとええよ』
その妻のその言葉で、老映写技師――佐々木は何もかも満足してしまったのだそうだ。そして妻の中で果てると、その足で姿を消して二度と故郷へは戻らなかったのだそうだ。
「なんだか、寂しいですね」
「いや、もしかしたら、ワシは妻のことが、それほど好きだったわけではなかったのかもしれん。そもそも親が連れて来た相手やったからな。何となく去り難かったのは執着だ。たんに――自分のモノだ――いう浅ましい欲だけだったのかもしれん」
それからの佐々木は国中の大きな街をあちこち彷徨った。戦後復興の最中であり、選ばなければ働き口に事欠くことはなかった。ただ故郷を追われ、また二度と帰れなくなったということが、気持ちを荒ませた。酒に酔って喧嘩をすることもしばしばで警察に世話になるのも一度や二度ではなかった。
「その時、若い警察官に言われたんだ」
『あんた、死んでるんだから捕まったらダメだよ。手続きが面倒くさいんだから……』
冷静に考えれば、すぐに判ることだった。佐々木は戦争で死んでいるのだから、当然、戸籍がなかった。
それからはこの世に居てはいけない人間のような、悪事を働いた人間のような、そんな気がして、とにかく極力目立たぬように過ごすようになった。
そして気づいたら、終戦間近に半年間隠れ潜んだ山があったこの地に帰って来ていた。失った戸籍が落ちているような、そんな気がして山中を彷徨った。
山を下りてからは、大型トラックで材木を運ぶ仕事をした。ただ世が進むにつれて、規制やルールが厳しくなり、零戦に乗っていた佐々木でも一旦死んだことになっているからには無免許であり、トラックに乗ることも出来なくなった。
運送会社の計らいで配車や検品の仕事をさせてもらっていたが、生き難さはどんどん増していった。
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