第20話

 しかしてちゃぶ台を囲んだ肝心の夕飯は、にぎやかな食卓とは程遠い寡黙なものであった。

 カチャ、カチャ、スプーンが皿に当たる音だけが静まり返った空間に空しく響く。

 別にこの女とにこやかに会話しながら、楽しく食事をしたいわけではない。話が弾むような要素もマイナスに近いゼロだ。

 けれど、家族そろっての賑やかな食卓に慣れきっている洋平にとってこの寡黙な空間は非常に居心地が悪い。

「あのさ、さっきどこ行ってたの?勝手口から」

 別にどうでもいいことだが、他に会話の糸口を掴めなかった。

「勝手口?」

「さっき、台所で」

「あぁ、あれ勝手口じゃないよ」

「は?じゃあ何」

「物置の扉」

「ふーん」

 会話が終わってしまった。

 さっきまであんなにぎゃんぎゃん五月蠅かったのに、どうやら小原涼子にとっても洋平と話したいような話題は一つもないようだ。

「あのさ、あの日のことなんだけど」

 特にそれについて話したいわけでもない、けれど小原涼子と再会するまで何となく心の隅に引っかかっていたあの雨の日のことを洋平は聞くことにした。

「はっ、あの日?あの日ってどの日?」

「あの、雨の」

「雨のってこの間まで毎日降ってたでしょうが」

 まさか覚えていないのか?わざわざ会いに来ておいて。

「だからっ、お前がっ、ファム・ファタルとか適当なこと言ってたあの日だよ」

「あぁ」

 やっと思い出したようだ。しかし、何が気に食わないのか眉間にぐぐっと皺が寄っている。

「お前って言わないって約束したよね」

「あ、あぁ、小原涼子が」

 口を人質にされていたから仕方なく言っただけで特に約束をした覚えはないが、そこを突いてもどうせ堂々巡りになるんだろう。

 カレーがやけに滲みる唇、洋平はもう摘ままれるのは嫌だった。

「それで、その日がどうしたの?」

「あぁ、何で来たのかなって、俺があの時間にあそこ通るのとか分かってて会いに来たの?」

 洋平の問いに、小原涼子は不思議そうに小首をかしげた。

「洋平に会いに行ったんじゃないよ」

 そんなことがあり得るのか?あんな普通の住宅街にしかも洋平一家が住む場所に、たまたま偶然来たとでも?

「じゃ、じゃあ何であんな所にいたんだよ」

「あー、あれね、ケーブルテレビの街歩き番組で近くのカフェに取材に行ってたんだよね、ほらあのワンニャンカフェとカンフーカフェが併設された」

「あぁ、あそこ」

 確かに一時話題になって、夕方のニュース番組が取材に来たこともある。このところ下火になってはいたが、取材に来るのもおかしくはない。

「それで時間が空いてぶらぶらしてたらさぁ、たまたまね」

 あの出会いは、ただの偶然だったのだ。

「いや、ちょっと誰かに似てるような気がして暇つぶしについ声かけちゃったんだけどね。いやーアタシに似てたんだね、昔のアタシに」

 我が子に一目会いたい、そんな感情はこの女には無かったのだ。

 たまたま、暇つぶし、十四年ぶりの再会はその程度のもの。

 そんなどうでもいい出会いを忘れられずにいたなんて、洋平は自分にがっかりした。

 しかも、昔の小原涼子に似ているなんて、こんなヤツと似ているなんて言われるのも嫌だ。

「ちっとも似てねーし」

「いや、ほら、今一応化粧してるし、年も取ったから。でもさぁ、中学時代の、アイドル時代の写真とかマジそっくりだよ、うーん、昔のCD持ってくればよかったかな、あっ、洋平さ、アタシが昔アイドルやってたのは知ってる?」

「あぁ、アイドルっていっても地下アイドルだろ」

「はぁ、誰から聞いたの?」

「何か、髭がもじゃっとした記者のおっさん」

「あぁ、山辺か。アイツめ!いちいち地下とか言ってんじゃねーよ。ちゃんとメジャーでも一枚出してるっつーの。チャートインもしたし」

「へー地下なのにすごいじゃん、何位?」

「89位!」

「へ、へぇ、そうなんだー」

 イライラと爪を噛みつつも、昔の、アイドル時代の話を自分から進んでし始めた小原涼子に洋平は不思議な感覚を覚える。

 小原涼子にとっての昔のアイドル活動がこの女の中でどんな位置を占めているのか洋平は知らない。しかし、さっき自分がアイドルだったと打ち明けた時どこか遠い目で懐かしそうに、そして口元は楽し気に緩んでいた。

 小原涼子にとって、アイドル時代は楽しい記憶なのかもしれない。ならば、その活動をやめなければいけなくなった妊娠、その結果この世に誕生した洋平の前でなぜそんなに屈託なくそのことを語れるのだろう。

 辞めざるを得なくなった原因を前にして、悔しくなったりはしないのだろうか。

 話せば話すほど、この女のことが分からなくなってくる。

 洋平とこの場で暮らして一体何がしたいのか、この先どうしたいのか。

 洋平が勘ぐっていた本が発売される前に、親子として過ごした実績を作っておきたいだとか、そんな計算ができそうにはとても思えない。

 しかし、その一方で洋平に母親としての情愛を持ち、ともに時間を過ごしたいと思っているようにも見えない。家に来た時言っていた小瀬川家のためというのも適当に口から出て来た方便だろう。

 行き当たりばったりに、適当に動いているようにしか見えないのだ。

 

 自由奔放な物言いで、何をしでかすか分からない小原涼子、初日から振り回されて先が思いやられると憂うつな心持ちになった洋平だったが、その生活は意外なほど平穏なものだった。

 朝、小原涼子はトーストを焼き、コーヒーを淹れる。淹れるといってもインスタントコーヒーを湯に溶かすだけだが。これが彼女のする一日で唯一の家事と言えるものだ。

 そして、洋平と共に向かい合って朝食を済ませる。数日が過ぎてみると無理に会話をする必然性も感じなくなり、無言のままトーストの咀嚼音だけが耳に入ることも全く気にならなくなっていた。

トーストは皿には乗せずティッシュに乗せる。洗うのが面倒だからだそうだ。パンくずが零れてちゃぶ台を拭くのが面倒だと何度言ってもどこ吹く風で、豪快に食い散らかし焼けたパンの耳のくずをまき散らす。

 それからコーヒーカップ代わりにしている湯飲みをもって台所に行き、少し冷めたコーヒーを一気飲みすると棚からクリープのボトルを出し、大きなスプーンを差し込んで山盛りにし一気にぺろりと嘗める。

「あー、美味しい。たまんない」

 ちゃぶ台のパンくずを拭き、湯のみを洗う洋平の横で小原涼子は満足そうに唇に残された白い粉を長い舌でべろりと嘗めとる。

「ねぇ、あんたも嘗めたい?」

 小首をかしげる小原涼子に、良平は軽く首を振る。

 トーストと共にコーヒーを用意するのに、一緒には飲まない。

 コーヒーを飲み終わってから、クリープを嘗める。

 珍妙な行動に思えるが、これが小原涼子のルーティンなのだ。

 コーヒーの風味が残った口でクリープを嘗めるのが一番おいしいのだと、聞いてもないのにぺらぺらと講釈を垂れたりもする。

 コーヒーの後に嘗める。それは洋平には同意しかねる好みだが、実はそれ以外は分からなくはない。それどころか幼いころ洋平はクリープをおやつ代わりに嘗めるのが大好きで、こっそり嘗めては母に叱られていた。中学生になった今は弟への示しもあり流石にやっていないが、今でもときどき嘗めたくなる。大人になって一人暮らしをしたら思う存分飽きるほど嘗めてみたいと思ったこともあるくらいだ。

 やりたい放題、自由奔放、行き当たりばったり、小原涼子に当てはまる言葉はいずれも洋平には似合わない。

 でも、こんな妙なところが似るなんてな。

 下を向いて苦笑する洋平の横で、小原涼子は名残惜しそうにスプーンを嘗めてからさぁ洗えと言わんばかりに流しにポーンと放った。

「スプーンぐらい洗えよな」

 洋平が注意しても鼻歌をふんふん歌いながら知らんぷり、怒るのが馬鹿らしくなってくる。

 まるで大きな子供のようだ。

 部屋着もだらしなくて、年頃の少年と一緒にいるというのに寝巻兼用のだらんとしたスリップを一枚来ているだけ。外ではわざとらしいまでの女優ファッションをしているというのに、家の中ではこれだ。

 あの記者もこんな日常の姿を見たら、百年の恋も一瞬で冷めるだろう。

 しかし、そのまま一日中だらだらと過ごすと思いきや、小原涼子は意外な行動をとる。

 スリップの上から古ぼけたジャージを着こむと、まるでミスマッチなあの紅い女優帽を被り、ビニール手袋をはめて家の外に出て植物の手入れをするのだ。

小原涼子は家事はまるっきりやらないくせに、これだけは日々かかさなかった。

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