第10話

 翌朝の通学路、待ち合わせていた友人の中川の姿が見えず、洋平は一人で登校した。

 すると、いつもなら「おはよう」とあいさつしてくるクラスメイトがこちらを見てひそひそと何かを話し、こちらから「おはよう」と声を掛けても目も合わせてくれない。

 昨日遅刻してしまったからだろうか。三日休んだのをずる休みと誤解されたのだろうか、首をひねりつつ席についてふと黒板が目に入ると、そこには黄色いチョークででかでかと便所の息子と書かれ、横にまきぐそとその周りをぶんぶん飛ぶハエの絵がなぐりがきされていた。

 それを呆然と見つめる洋平を、クラスメイトがクスクスと笑っている。

 そこには待ち合わせていたはずの中川の姿もあった。

「あの、中川、一体どういう事なんだ。俺何かしたか?ひょっとして休みの間トイレ掃除の当番になってたとか……」

 洋平が問いかけても、中川は鬱陶しそうに肩に置かれた洋平の手を払い、眉間にしわを寄せて何も答えない。

 代わりに横にいたお調子者の斉木が鼻を摘まんでゲラゲラ笑う。

「トイレ掃除当番だってよーウケるわー、さっすが便所の息子だわ三度の飯より便所が大好きだよなー」

「だから、それ何なんだよ!」

 何を聞いても皆くすくすと笑ったり、嫌そうな顔をするだけで、何も答えてくれない。

 斉木のように鼻を摘まむものまでちらほらいる。

 洋平は、まるで自分が異次元に飛ばされたような気持ちになった。

 三日休んだ。しかし、休み明けの昨日会ったクラスメイト達は皆いつも通りだった。

 中川だって「熱下がってよかったなー、もう平気か」と、気遣ってくれていたのだ。

 なぜ急にこんなことに。

 たった一日で、自分はいじめのターゲットになってしまったのだろうか。自分では気づかないうちに何か大きなミスをしでかしてしまったのだろうか、ぐるぐるぐるぐる考えても理由が分からずにいるうちに、ガラガラと扉を開けて担任の酒井先生がやって来た。

「こら!こんなことっ、一体誰がやったんだ!」

 黒板のいたずら書きに気付くと、酒井先生は目を吊り上げ拳をわなわなと震わせてひどく怒った様子でその文字と絵を消した。

 そして、「小瀬川、ちょっとこっちに来なさい」と洋平を呼び出し廊下に連れ出す。

 まさか自分がやったと思われているんじゃ、冷や冷やしながらついて行くと、「大変だったな、でも気にすることはないんだぞ、何があったとしても小瀬川は小瀬川に変わりないんだ。先生はいつでもお前の味方なんだからな」と意外な言葉をかけられ肩をポンと叩かれた。

「あの、それ、どういうことですか?俺、これといって何もないんですけど…」

 洋平がきょとんとして聞き返すと、酒井先生はしまったというような慌てた表情をして、白衣のポケットからよれたハンカチを取り出すとしきりにこめかみを拭う。

「便所の息子とか、正直全然意味が分からないんです。俺昨日何かしてしまったんでしょうか……考えても自分では全く思い当たるようなことがなくって。昨日の帰り際も皆普通だったのに、急に…」

 その問いかけに酒井先生は気まずそうに眉を顰め、汗でぐっしょりと濡れたハンカチをふらふらと振りながらゆっくりと首を鳴らした。

 ぽきりと言う音と共に返って来た返事は「今日はもう帰りなさい、事情はお父さんとお母さんに聞いて」という洋平が期待していた答えではなかった。


 何が何だか訳が分からない、どんよりとした重い気分に包まれて帰宅すると、家の中でもひと騒動起きていた。

 小学校から勝手に帰ってきてしまったらしい希が、ギャーギャー泣きながらお気に入りのモノレールのおもちゃの線路をあちこちにほうり投げている。

 それを止めようと羽交い絞めにしている母の頬も涙で濡れそぼっている。

「ただいま……」

 洋平の小さな声に、まずは希が反応する。

「兄ちゃんのせいだ、じぇんぶにぃぢぁんのぉぉ……」

 涙で、最後は言葉にならない。

 一体何が起こっているというんだ、この家で、自分の周りで。

 朝はみんな普通に朝食を食べて、この味噌汁ちょっとしょっぱいなって軽口をたたいて母さんがむくれて、そのふくれっ面があまりにも大げさだって笑いあっていたじゃないか。

 

 泣きつかれて眠ってしまった希を子供部屋に運んでから、母はこの出来事のきっかけ、何が起きてしまったのかを洋平に話し始めた。

「洋ちゃん、不審者のおじさんのこと前に話したわよね」

「あぁ、気を付けろって」

「あの人ね、フリーの記者だったの。あれやこれや調べてね、週刊誌に売るのよ。うちにも前に来たんだけどね、取材はキチンと断っていたのに……あることないことあちこちに言いふらして」

「何故、そんな人が」

「洋ちゃん、あの人に何か言われなかった?」

「あ、昨日……実は、帰って来てすぐに話そうと思ったんだけど、疲れて寝ちゃって」

「そう、そうだったの……何を言われたの」

「何か、俺の誕生日と同じ日にコンビニのトイレで事件が起きたから、それを調べろって」

「そう、それで調べた?」

 母は寂しそうに唇をゆがめ、赤くはれた目にはまた涙がゆらゆらと浮かび上がっている。

「図書館のPCで調べてみたら、何か、大学生がトイレで赤ちゃん助けたとかどうとかそんな昔の記事が出てきただけだけど」

「そっか、そっか、もう分かっちゃったんだね」

「え、だから何が」

「その助けられた赤ちゃんはね、洋ちゃんなの」

 母はその場に突っ伏すと、わーっと泣き崩れた。

 便所の息子、あの落書きで昨日調べたあのニュースのことは思い浮かんだ。しかし、自分には関係ないことのはずだった。だって自分は……目の前にいるこの母から生まれたのではないのか!父と母の間に生まれて来た子供ではないのか。

 結婚して何年もたってから授かった待望の長男だって、事あるごとに両親は言っていたじゃないか。

 あの男に事件を調べろと言われても、便所の息子と言われても、自分とその赤ん坊と結びつけないようにしていた。もし考えてしまったら、本当になってしまうような恐怖心があったのかもしれない。

 しかし今、真実は白日の下に晒されてしまった。あろうことかこの母によって。

 もういくら考えないようにしても、目をそらしても、耳を塞いでも。

 明らかになってしまった事実は変えようがないのだ。

 頭を突然後ろからガツンと殴られたような気分だ。

 自分は平凡な家庭の平凡な子供で、これからも平凡に生きて、この家を巣立つにしてもありふれた誰にでも訪れるような独立のタイミングで行くんじゃなかったのか。

 何なんだ、何なんだこれは。

 立ち眩みが襲い、そのまま洋平は気を失ってしまった。


 居間のソファーで目覚めた時、目の前には母だけではなく父の姿もあった。

 どうやら母からの連絡を受けて、役所から駆けつけたらしい。

「洋平、もう気分は大丈夫か?」

「うん……」

 こくりと頷くと、父と母は洋平の手の上に自分たちの掌を重ねて、ゆっくりと事のあらましを話してくれた。

「お父さんとお母さんにとって待望の長男がお前だというのは本当なんだ。私たちは大学の同級生でね、卒業してすぐに結婚したんだが何年たっても子供に恵まれなかった。そんな時にお前と出会ってな、すぐに家族になりたいと思った」

「俺、養子だったの?」

「あのね、特別養子縁組っていうの、少し難しい話になるかもしれないけど……あなたを産んだお母さんとの関係を解消してね、私たちの、私たちだけの子供になってくれたのよ。だからね、私たちは本当の本物の親子よ、ねぇ、そうなのよ。私はね、お母さんとして洋ちゃんを心から愛してるの。それはずっと同じ同じなのよ。絶対に変わらない。これは、何があったって、そう、そうよ、うっ」

 また泣き崩れた母の肩に、父がそっと手を当てる。

「父さんも同じ気持ちだよ、私たちは本物の家族だ。それは誰にも壊せやしない、洋平は大事な私たちだけの愛する息子だ」

 あー、何か、ドラマみたいな展開だな。ちょっとセリフがくさすぎるけど、

 本物、本物って言われると逆になぁ。すげぇ泣いてる割りにすらすら言葉が出てくるけど、もしもの時のために前から二人でこういう場面の練習とかしてたんかなぁ。

 よどみなく自分への愛を語る両親の懸命なでもどこか芝居じみた様子を見ながら、洋平の脳裏には珍妙な考えがよぎっていた。

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