第9話

 翌日、雨の中をTシャツ短パンの薄着、そして裸足で駆け抜けた洋平は、案の定ひどい風邪をひいてしまった。

 39・8度もの高熱は病院でもらった解熱剤を飲んでもなかなか引かず、おかゆも口にできないほどで二段ベッドはよろけて危ないと父の書斎に来客用の布団を敷いて寝かされ、学校を三日間も休む羽目になった。

 やっと起き出すと頬がげっそりこけていて、母に体重計に乗せられると三キロも体重が減っていた。

「あららーこんなに痩せちゃって、お母さんのこのお肉分けてあげたい」

 母が自分の腹の肉をぷにっと摘まむ。

「いらないいらない、そんな中年の腹のぜい肉とかいらーん」

「失礼ね!お母さんまだまだ若いのよ」

「怒りポイントそこかい!」

ふくれっ面の母の顔がおかしくてぶはっと吹き出すと同時にぎゅるるーと腹が大きな音を鳴らした。

「あー、腹減った」

「あぁ食欲が出て来たなら良かった。急に普通のご飯食べたらお腹がびっくりしちゃうからご飯は今日はおかゆにするわよ」

「えー、もう治ったのに」

「おかずもあるから我慢なさい」

 母の手作りのブロッコリーとトマトのチキンスープ、卵粥、甘い卵焼き、変な取り合わせでトマトが苦手でスープはいつも残してしまうのに、今朝はいつもと違う気がする。

「なんか、うまい……」

 洋平がぽつりとつぶやいた言葉を聞いて、母はぱーっと明るい笑顔になった。

「まーまー、洋ちゃんもやっとトマトの美味しさが分かるようになったのね」

「うーん、風邪のせいで舌がちょっと変なのかも」

「そうだよー。げートマトもブロッコリーもまずいモーン、お母さん卵焼きもっとちょうだーい」

 スープの味が変わったわけではない、弟の希はいつものように嫌がって舌をべーっと出している。

「もう、のんたんったら、野菜ときたら全部嫌いなんだから、だめよ。スープ全部飲まないと卵焼きはもうあげません!」

「お母さんのケチー」

「ケチで結構!」

 希と一頻り親子漫才をした後、母はふっと洋平に向かって笑顔を見せた。

「洋ちゃんの舌は変わったかもしれないわね、でもねそれは熱のせいじゃなくて段々と大人のの舌になってきているってことかもしれないわ」

 ふと気づくと、この間まで同じ高さだった母の目線がすこし下になっていた。

「あ、俺。なんか背がちょい伸びたみたい」

「そうねー、お母さんとうとう抜かされちゃったわね」

「へっへー、僕だってすぐに抜いちゃうもーん!」

「はいはい、だからお兄ちゃんみたいにスープのこさず飲みなさい」

「げぇぇ」

 賑やかな朝、変わらない日々、けれど自分は刻々と成長し大人へと近づいているのだ。

 大学進学、就職、結婚、どのタイミングかは分からない、先のこと過ぎて全く実感はわいてこないが、いつかはこの家を巣立っていく日もやってくるのかもしれない。

 非日常に思える大きな事件など起きなくても、変わらないものなどないのだ。

 そのことに気付くと、洋平の胸はちりちりとむず痒いようなチクチクするような奇妙な感覚に襲われた。

 念のため病院に行ってから、少し遅れて三日ぶりの通学路を歩く。

「本当に一人で大丈夫?お母さんが送っていくわよ」

 職場への通り道だからと学校までついて行くと言う母を「まだ仕事の時間じゃないだろ」と振り切り、小走りで中学へと向かう。

 遅刻の連絡は母がきちんと入れてれているが、小学校は六年、中学の一年、七年間無遅刻無欠席だった洋平にとってこんな時間に登校するのは初めてだ。

 その上中学生にもなって母親同伴なんて、いくらなんでもありえなさすぎる。

 早く自分の席に着きたい、はやる気持ちとは逆に足が少しもたつく気がする。

「三日も寝込んでたもんなぁ」

 体重の減ったし、足が少し弱っているのかもしれない。

 一層スピードをあげようとすると、目の前にいきなり誰かが立ちはだかった。

 千鳥格子の頭に合わない小さなハンチング帽、よれよれのトレンチコートを着た髭面で小太りの中年男。

 これは、今話題になっている不審者かもしれない。

 竦む足に力を込めて逃げ出そうとすると、男はたばこ臭い息をふーっと洋平に吹きかけて来た。

 そして、ひるんだ洋平ににやりと笑いかける。髭の間から抜き出された歯はがたがたとして黄色く変色しところどころ抜け落ちているのに、何故かそこだけ真っ白な牙のような犬歯がにょきっと出ている。

 危ない、この男と関わってはいけない。

 瞬時に踵を返そうとした洋平に、男は声を掛けてくる。

「君、小瀬川洋平君だよね。富士中の二年生、誕生日は七月七日」

 何故この男がそんなことを知っているのか、ぎょっとして目を見開くと男は一層にやついて突き出た犬歯を白い苔のようなものがびっしりと埋め尽くした舌でべろりと嘗め回した。

 逃げなくてはいけない。母に言われていた通りに近くの子供S0Sの家に逃げ込まなくては、早く、早く逃げなくては。

 看板は男の後ろに見えている。それなのに洋平はそこから一歩も動けなくなってしまった。

「2000年の七月七日、ニ十世紀最後の七夕の日、どんな事件が起きたか君は知っているかい?」

 男の問いに、洋平は無言で首を振る。

 自分の誕生日ではあるが、事件ではない。そんなことは関係ないだろう。

「埼玉県吹本町、コンビニ、トイレでちょっと調べてみなさい。まぁご両親に訊いてもいいんだけどね、じゃあ今日はこの辺で。また会おう」

 一方的に告げると、男はそそくさとその場を立ち去った。

 冗談じゃない。二度と会いたくなどはない。

 そう思いはしたが、男が言い残した言葉は気になった。

 自分の生まれた日に、一体何が起きたんだろう。

 洋平は帰り際、駅前にある市立図書館でパソコンを借りる。家には父のノートパソコンがあるが、何となく検索履歴を見られたくなかった。

 以前ファム・ファタルで検索した後、「洋平―、どこかの女の子に運命を感じちゃったのか?」などと散々からかわれたからだ。

 抜けた歯のすき間からシューシューと息が漏れていたせいか、がさがさとした声質のせいか男の声は聞き取りにくく、町名はよく聞き取れなかったため、先ずは2000年七月、トイレ、事件で検索してみた。

 すると、90年代に人気だったらしい元お笑い芸人が起こした女性への暴行未遂事件と、その数年後に大麻密輸で有罪になったことばかり出てくる。

「こんなヤツ知らねーし」

 当時は大騒ぎになったのかもしれないが、生まれる前に少しの間人気だった芸能人のことなんて知っているはずがない。洋平にとってはただの一般人が引き起こしたどうでもいい事件だ。

「うーん、多分これじゃない、そういえば」

 コンビニのトイレ、聞き取れた部分と七月七日という日付で検索すると、地方紙のネット版の過去ログが引っかかった。

 そこには【七夕の奇跡、お手柄大学生小さな命を救う】という見出しで、数年前に統廃合で消えてしまったコンビニの制服を着て少し恥ずかしそうに笑うトサカ頭の青年と、得意げに笑う年配の男女、そして短い記事があった。

 洋平が生まれた日、吹本町のピッカリマートのトイレで赤ん坊が生み捨てられ、アルバイト青年がその命を救った。

 トイレに赤ん坊を産み捨てる。頻繁にではないが、たまに見かけるニュースだ。テレビでこの手の話題があると、母はすぐにチャンネルを変える。

 気分が悪くなるからだそうだ。

 大して珍しいわけでもないニュース、あえて言えば命を落としたと報じられることが多く、その産み捨てた女が捕まったという事後報道があることが多いが、この赤ん坊は命が助かった。

 そこはなかなかないことなのかもしれない。

 しかし、あの男が自分にこの事件を調べろと言った意味が分からない。

 少々気はならないこともないが、それ以上にあの黄色い歯、たばこ臭い息、不気味なにやつき顔を見るのが嫌だ。

 誕生日が知られていたのは気味が悪いが、あの男は皆に気付かれる前からあのあたりに潜んでいたのかもしれない。

そして気付かないうちに友人と雑談していた内容を聞かれていたのかもしれない。

 七夕生まれということで、誕生日が近くなると洋平は「おーいヨウ、今年こそは織姫に会えそうか」などと友人たちにからかわれることがあるのだ。

 攫われそうになったわけではない、何か危害を加えられそうになったわけでもない。けれど、今までは見ているだけだった不審な男は声を掛けてくるまでになった。

 自分がまた会うのも嫌だが、他の生徒が危険な目にあってしまうかもしれない。

 そう思うと両親にこのことをすぐに話さなければと思うのだが、病み上がりのせいかひどく倦怠感を感じ、家に帰ると夕飯も食べずにすぐに眠ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る