第8話
七月に入っても雨はまだ止まず、からりとした青天がどんなものだったが忘れそうになっていたころ、市内で不審者の目撃情報が相次いだ。
特に中学付近での出没が多く、パトロールの父兄がいない隙を狙って帰宅する生徒たちのことをじろじろ見ているのだという。
声を掛けたり、触ろうとしたりした事例は今のところないのだが、その嘗め回すような目つきがあまりにも不気味で遭遇した生徒たちが先生や親に相談し、親たちの携帯に注意するように、子供たちに万が一一人の時に声を掛けられても決して何も答えず、近くに見回りの父兄がいた場合はすぐに助けを求めることなどとお達しメールが回って来た。
怪しい大人、洋平の脳裏にはあの深紅の傘の大人の女性が浮かんだが、この怪しい人間はハンチング帽を被った小太りの中年の男だということで、全くの別人で関係はなさそうだ。
「洋ちゃんも気をつけなさいよ、もし変なおじさんに声を掛けられたら子供SоSの目印のある家に逃げ込みなさい。お菓子をあげるとか言われても絶対ついて行っちゃだめよ。最近はねぇ、男の子だっていろいろと危ないんですからね」
「ちょっと、お菓子ってさ、俺もう中二だよ。つーか、小さい時でも意地汚くそんなんについていかねーし」
「そうね、洋ちゃんは小さい時から用心深いから知らない大人に声を掛けられても、返事もしたことないものね」
「あ、あぁ……」
またあの大人の女性のことが浮かんで少し気まずくなるが「勿論だろ、安心してくれよ」と自分に言い聞かせるようにきっぱりと返事をし直す。
ゆずり葉のことでしばらく思い出すことも無かったあの大人の女性の残像は、しばし忘れていたはずなのにまだ心の隅を紅く染めていた。
「まぁ、あの傘とかの色が強烈すぎて覚えているだけなんだろうな」
湿ったジャージを脱ぎ捨て乾いたTシャツに着替えてごろりとベッドに横になり目を閉じると、鮮烈に蘇った紅は徐々に薄れてゆずり葉の顔が浮かんでくる。
けれど、その顔はいつもの雨上がりの空のようにカラッとした明るい笑顔ではなく最後に見たあの俯いて寂しげな表情だった。
せめて頭の中でだけでもあの晴れやかで春の空気のように暖かでほがらかな笑顔を浮かべたいのに、どうしても思い出せない。
悲しい顔なんかよりずっとずっと多く見続けてきた笑顔だったというのに。
洋平にはそれが悔しくてたまらなかった。
うとうとといつの間にか眠ってしまうと、窓の外はもう暗くなっていた。
「あー、晩飯食わなきゃ」
カーテンを閉めながらふと外を見ると、街灯の下に人影が見える。
「あっ、あれは」
見間違えるはずもない。青い傘をさしていて顔をしっかり見えないが、竹のようにすっと伸びたシルエットあれはゆずり葉だ。
傘が目隠しになってしまっているせいかゆずり葉はこちらの視線に気づいていない様子で、ちらりと窓を見上げた後すっと背を向けて歩き始めた。
あぁ行ってしまう、急がなきゃ、早く行かなきゃ。
転がるようにしてベッドの梯子を駆け下り、そのまま玄関の外まで突っ走る。
「どうしたのー」
微かに母さんの声が聞こえるが、返事をする余裕などない。
「ゆ、ゆずり葉―ゆーちゃん」
遠ざかってゆく後ろ姿、影の端にやっと足が届いたがそれでは捕まえられない。
必死で追いかけて縋りついた背中は、とても薄く消えてしまいそうなほどに儚い。
「ゆーちゃん、行かないで」
ぷるぷると震える背中はぎゅっと丸まり、しばし嗚咽のような音が聞こえた後、ゆずり葉はふうっと息を吸い込んで顔をゆっくりこちらに向けた。
「あのさー重いんだけど。そろそろ離れてくれない。動けないじゃん」
「あっ、あっ、ごめん」
少し鼻声の、でも精いっぱいの明るい声。
その声がどうにも切なくて、洋平の鼻の奥はツーンと熱くなり、ずるずると鼻を啜る。
「ちょっ、鼻水ずるずるじゃん、きったなー」
「うん、うん、ずずー」
胸がいっぱいで、鼻を啜る音でしか返事が出来ない。
少し腫れた目の、でもずっと見て来たあの笑顔、思い出せなくなっていたあの顔が目の前にあるのだから。
「もー雨なのに傘もささないで、ほら一緒に入って、あー、それに裸足、足びちょびちょになってるよ」
あまりに慌てて出てきたため、靴どころかサンダルを引っかける余裕も無かった。
「あーそういえば足痛いや」
「そうだよー、あたしもさぁめっちゃ痛かったもん」
あの辛い日、話題にもしたくないはずなのに、笑い飛ばそうとしているゆずり葉があまりにもいじらしくて思わず抱きしめてしまいたくなるが、洋平にそんなことができようはずもない。
ぷるぷると前に出そびれた手は、空しく空を横切り「あ、あのさ、アプリコットジャムまだあるんだぜ、母さんもゆーちゃんのことすごく心配してたからさ、パンケーキ食いに家に来いよ」と誘うのが精いっぱいだった。
「あーそうだね、あたしも洋ちゃんママに会いたいしパンケーキも食べたい。でももう帰らないと。また今度ね」
「ど、どこに」
訊きづらい、訊きづらいが、このまま別れてしまっては今度こそまた今度は訪れないかもしれない。洋平は必死だった。
「あー、えっとね、今は産みのお母さん?っていうのかな、その人のお父さん、おじいちゃんのところにお世話になってるんだぁ。おばあちゃんと離婚してて自分に孫がいるの全然知らなかったみたいでね。事情を知ってあたしのこと引き取りたいって。横浜でねー大学の先生、教授ってのをしてるんだよー家ん中めちゃくちゃ本がいっぱいでさー見てると目がぐるぐるしてきちゃうんだぁ」
精いっぱいの明るい声、それが余計に胸に沁みる。
単純に、あぁ良かったなとホッとできる気分でもなかった。
「だからね、帰るまで二時間もかかるからもう行かなきゃ。今日はね、家に忘れ物を取りに来たの、荷物殆ど置いてあるから。でも留守みたいだから横浜の家まで送ってもらおうかな」
ゆずり葉は、横宮の両親が引っ越してしまいもうあの家にいないことをを知らないのだ。
「そ、そうか」
洋平は、その事実をゆずり葉に告げることはできなかった。
つい数か月前まで真の両親であると信じて疑わなかった人たちが、代わりの娘を連れて新しく家族となって自分には何も告げずにどこかへ行ってしまったのだ。
ゆずり葉の日常は脆くもガラガラと崩れ去り、この場所から痕跡を残さぬほどに跡形もなく消え去った。
そんなことをわざわざ知る必要はない、これ以上辛い思いをすることに何の意味があるというのか。
「じゃあね、もう電車の時間だからさ」
去ろうとするゆずり葉のシャツの袖を、今度は洋平が引っ張る。
「ちょ、ちょっと何」
「携帯、携帯の番号教えてよ」
これを逃してしまったら、絶対に後悔する、向こうが教えてくれないのに自分からわざわざ訊くなんて恥ずかしすぎていつもの洋平ならとても無理だったが、緊急事態により心の鍛冶場のバカ力が発動してくれたようだ。
「あー!やっと聞いてくれた!」
ゆずり葉は、ここにいる間は制服以外は履いていなかったスカートの裾をふわっと翻して洋平の記憶の大口を開けたいつもの笑顔とは違う、ふんわりと花が咲くように柔らかく微笑んでスッとメモを差し出した。
「このまま持って帰るのかと思ってた」
「ちょっ、用意してくれてたなら先にくれよー」
「えー、頼まれてもないのにぃ」
「ゆーちゃんって、意外と変なこと気にするよな」
掌でずっと握っていたのかくしゃくしゃになったそのメモを開くと、番号の上には御上院ゆずり葉と記されている。
「ご、ごじょういん?」
「そう、それあたしの新しい苗字、随分御大層だよね」
「いや、なんつーか格好いいよ」
「へへっ、そうかな」
「そうだよ、どこぞのお嬢様みたい」
「ふふー、下僕よ。跪きなさいな」
「そんなお嬢様いねぇし」
「何よー、あははっ、あっもう本当に行かなきゃ」
ゆずり葉は携帯の時計を見て、少し寂し気に笑う。
「俺、駅まで送ってくよ」
「やだー裸足で! 原始人じゃあるまいし」
「言ったなー、がおー食べちゃうぞー」
「あっははは、猫原人!」
いつもの大口笑いに戻ったゆずり葉を見送り、ふと我に返ると足の裏が異様に冷たい。雨は小休止していたが、夜のとばりで冷えた雨露がアスファルトから直に伝わってくる。
急いで家に戻ると、母が玄関先で仁王立ちで待ち構えていた。
「洋ちゃん、部屋着に裸足で一時間もどこに行ってたのっ!」
ほんの十分程度の立ち話のように感じていたが、そんなに時間が経っていたらしい。どうりで足が冷えるはずだ。
「あ、あの、ちょっとそこまで」
「そこまでって!」
これは事実だ、この玄関先からゆずり葉と話した道の突き当りまでほんの数メートルしかなかったのだから。
「はぁ、ちょっとそこまで何をしに行ったの?」
ゆずり葉と会った。それを正直に話したら何故連れてこなかったのか、あれこれ聞かれるかもしれない。けど……
「窓からゆーちゃんの姿が見えて、そんで追いかけた
このことについて、嘘をついたり隠したりするのは嫌だった。
そんな風に誤魔化してしまったら、ゆずり葉に対して失礼な気がしたからだ。
「えっ、ゆーちゃんが?今、どこなの?まさか、家に戻って来たんじゃ」
母の顔はみるみる青ざめていく。洋平と同じように、ゆずり葉が自分には何も告げず横宮家が引っ越してしまったという事実を知ってショックを受けると思ったのだろう。
「いや、そういうんじゃなくて、家に置いていった荷物を取りに来たみたい」
「あー、荷物、荷物ね。あー、ゆーちゃんの荷物どうしたのかしら、奥さんどこに引っ越すか言ってなかったのよね」
仲の良かった母にも行く先を知らせない。この地で過ごした家族としての時間をゆずり葉の存在と共にリセットしてしまったのかもしれない。ふとよぎった自分のそんな考えに洋平の背筋はすっと冷たくなった。
「ひょっとして、全部捨てちゃったとかないよね」
「あぁ、そんなことはないと思うわ。ゆーちゃんの石神井のおばあちゃん、奥さんのお母さん、ゆーちゃんのことすごくかわいがっていたでしょう。こんなことになってからも自分が引き取って育てるって言っていたそうよ。でもねぇ、あの子のこともあるし、そういう訳にもいかなかったようでね。でもおばあちゃんは孫なことには変わりないって言っているそうだから、うん、おばあちゃんのところに送っているんじゃないかしら」
冷たくなった背筋にほのかに温かな感覚が戻る、あぁ良かった。ゆずり葉のことを大事にずっと思ってくれてる家族はいたんだ。それはゆずり葉にとってもどんなにか心強いことだろう。
しかし、あの子、あの子ってあの新しい横宮家の子供……彼女がそんなに大事なのか、気まずい思いをさせないためにゆずり葉とおばあちゃんの仲まで引き裂くなんて、後ろ姿しか見ていない名前も顔も知らない女の子にふつふつと湧き上がってくる怒りを洋平はぐっと呑み込もうとする。ダメだ、間違えちゃいけない。あの子は何も悪くないんだ。むしろ運命に翻弄された被害者なんだ、そう分かってはいるのにむしゃくしゃした黒い雲はなかなか消えてはくれない。
いらだち紛れにどんっと玄関の床を踏み鳴らすと、母がハッとした顔で足元を見てくる。
「ちょっと、洋ちゃん裸足じゃないの!」
「うん、ちょっと慌てちゃってさ」
「まぁ、今回ばかりはしょうがないけどね。風邪ひいちゃうから早くお風呂に入りなさい。足はちゃんと洗ってから湯船に入るのよ」
「そんなの言われなくてもわかってるよ。子供じゃないんだから」
「まー生意気なこと言って、お母さんから見たらまだまだひよっこよ」
「別の動物になってんじゃん」
「うふふ、髪の毛がぽわぽわ逆立って本当にひよこみたいね」
「もー気にしてるのに。みんな直毛なのに俺だけくせっけでさ」
「お母さんのおじいちゃんがくせっけだったのよ。隔世遺伝、うーん洋ちゃんからしたらひいおじいちゃんだけど隔世でいいのかしら」
「遠っ、知らんっ、じゃあお風呂行くね」
「はーい、足よ。足」
「しつけぇ、わかってるっつーの」
湯船でぽかぽかと体を温めながら、洋平は母との他愛無い会話、何気ないこの日常が幸せだなと思った。あまりにも当たり前すぎて今までそんなことを考えたことも無かった。
けれど、世の中には平凡で当たり前なこんな日常を突然奪われてしまう人もいるのだ。
そう、ゆずり葉のように。
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