第7話

 六月の末、雨はまだまだ続き、ねっとりとぬるくけれど冷たい空気を濡らす。

 ゆずり葉の消息はまだ分からないが、横宮家には動きがあった。

 六月最後の日曜日ずっと雨戸の閉まりっきりだった家の前に、引っ越しのトラックが停まっていたのだ。

 そして、あの日以来見ることのなかったゆずり葉の母、横瀬のおばさんとその夫である父親が並んでにっこりと微笑み合っている。

 その横には少女の姿があるが、後ろ姿だけでもゆずり葉でないと分かる小柄でぽっちゃりとした女の子だ。

 あの子は一体誰なんだろう、そしてゆずり葉は何処に行ってしまったんだ。

 思わず夫妻の元に駆け寄ろうとした矢先、三人はあのミニバンに乗って走り去っていってしまった。

 その日の晩、小瀬川家の食卓で久しぶりに横宮家の話題が上った。

 口火を切ったのは、母でも父でもなく、意外や意外弟の希だった。

「なー、兄ちゃん、兄ちゃんの友達のゆーちゃんってさ、取り違えっ子だったらしいぞ」

「はっ?」

 ちょくちょく遊びに来た時に、弟妹を欲しがっていたゆずり葉はよく希と遊んでくれたが、洋平とゆずり葉が中学に入学してからはその交流も途切れていたはずだ。

 そして、あの日の晩、希はぐっすりと眠っていてあの出来事も知らない。

 それなのに何故、こんなことを言い出す、そして知っているのだ。

 ぐるぐると考えを巡らせていると、母がパシッと希の手の甲を叩く。

「こら、のんたん、お箸を振り回しながらしゃべるんじゃありません」

「えー、そんなことしてねぇよ」

「嘘おっしゃい、お母さんのほっぺたにご飯粒ぴゅーんって飛んできたわよ」

「うっそだー」

「ホントホント、ほら見なさい」

「それ、お母さんが自分の茶碗から今指でとってくっつけただろ」

「お母さん、そんなことしてません!」

 いや、実際自分の茶碗、ではないが箸の先についていたご飯粒を指でつまむところは洋平も目撃していた。こんなバレバレの茶番まで演じたのは、希の話を止めるためだろう。

 母は確かに、何かを知っているのだ。

「あの、横宮、ゆーちゃんのこと、俺も知りたい」

 今まで口にしたくても出来なかった言葉を、洋平はやっと今吐き出せた。

 母は、はーっとため息を吐きニ三度首を振って、それからやっと口を開く。

「そうね、変なうわさ話で聞くよりも、ちゃんと説明した方がいいかもしれないわね。勿論私が知っている限りのことだけだけど」

「えー、俺が聞いたのって変なうわさじゃないもん、カースケの母ちゃんからカースケが聞いた話を聞いたんだもん」

「もうっ、のんたんはちょっと黙ってなさい」

「何だよー」

「ほら、そうやってもたもたしているとねぇ、残りの唐揚げお父さんが全部食べちゃうわよ」

「わー、旨そうだ。お父さんまだおかずが欲しかったんだ。どれどれーまずはおひとつ」

「やだやだー俺のー俺の唐揚げー」

 唐揚げを巡ってじゃれあいだした弟と父をしり目に、母は食卓から今のソファーへと洋平を連れ出し、話の続きを始めた。

「あの日、春休みの終わりの日、ゆずり葉ちゃんとお母さんが家に来たのは覚えているよね。あの後ね、ゆずり葉ちゃんは石神井のおばあちゃんが迎えに来て、それから奥さんとご主人、ゆずり葉ちゃんのお父さんとお母さんは二人でよく話し合ったの。それでね、ゆずり葉ちゃんの生まれた隣町の産婦人科にしっかり調べてもらったそうなのよ。あー、そういえばあの日、洋ちゃん廊下で話聞いていたよね?だから、何故そんなことになったのかはお母さんが今言わなくっても分かるわよね」

 全部気付かれていた。そりゃそうだ、居間の扉にはガラス窓がついている。曇りガラスではあるが、前に立っていれば影が映ってバレバレだろう。

 盗み聞ぎかバレているのに、自分は何も知らない様な顔をして母の前で過ごしていたのだ。どうにも気恥ずかしくやりきれない心持ちになったが、そんなくだらないことを気にしている場合ではない。

「うん」

 短く返事をして、話の続きに耳をそばだてる。

「それでね、その時に生まれた女の子がもう一人いて、看護助手の人がネームバンドをつけ違えてしまっていたのがわかったの。その人夜間学校に通いながら仕事していて試験で寝不足でぼーっとしていたみたい」

 そんなうっかりミスで、二人の少女、そして両親たちの人生が狂ってしまったのか。 浮気の子と誤解され、その上取り違えだなんて、こんな出来事、テレビの向こうの話だと思っていた。両親が依然見ていたドキュメンタリ―番組のように実際にあり得ること、でも実感のない、自分たちとは遠い世界のまるで作り物のような出来事だと。けれど、こんな身近に、よりによってゆずり葉の身にその出来事が降りかかってきてしまったのだ。

 愕然として、それでも訊かずにいられなくて、洋平は掠れた声を必死で絞りだす。

「じゃあゆーちゃんは、ゆずり葉は今は本当の親のところで暮らしているの?」

「それがねぇ……」

 母はまた深い溜息を吐き、気まずそうに眉をしかめた。

「えっ、何、どうしたの」

 何度も何度も聞きただすと、すっかり重くなった口をゆっくりと母は開く。

「あちらのご両親、というかお母さんね、シングルマザーだったから、子供が二歳の時にふらっとどこかにいなくなっちゃったそうなのよ。それでね、横宮さんの、うーん、本当のお子さんはね、養護施設で育ったの。それを知って横宮さんたちすぐに引き取りたいって施設に向かったんですって」

「えっ、じゃあ今度はゆずり葉がそこに!?」

「それがねぇ、私たちもそこまでは分からないのよ。引っ越しのごあいさつでいらしたときにね、あの時はご迷惑をおかけしましたって奥さんから話してもらったんだけどね、ゆずり葉ちゃんの話は出なくて、こちらから聞くわけにも行かないし」

「な、何でだよ」

「だってねぇ、娘さんが見つかったってすごく嬉しそうで、でも今まで辛い思いをさせたからこれからは愛情をたっぷり注いでうーんっと幸せにしてあげたいってそうおっしゃっていて……そんなときに、ねぇ」

「ねぇって何だよ!ゆずり葉だってずっと家族だったじゃないか!あんなに、あんなに仲が良かったのに」

「もうやめなさい洋平、母さんに当たったって仕方がないだろう」

 思わず声を荒らげ立ち上がった洋平を、父が諫めに来た。

「けど、けど、それじゃあんまり冷たすぎるよ」

「確かにそう思わないことも無い、お前の気持ちも分かる。けどな、いくら親しくしてい

たからといってこれはよそのご家庭の話なんだ。私たちがあれこれ嘴を挟むような問題じゃないんだよ。ゆずり葉ちゃんのことを考えるとお父さんもお母さんも胸が痛むが、今まで家族が無くて不遇な思いをしていた娘を全身全霊掛けて守りたい、幸せにしたいという彼らの気持ちも、それはそれでわかるんだ。親だからな」

「けど、ゆずり葉はどうなってもいいのかよ。自分たちの子供なのは間違いでした。じゃあもういらないってポイ捨てしてもいってのかよぉ」

 父の言っていることも理屈では分かる。けれど、ずっと娘だと信じて育てて来たゆずり葉のことをそうも簡単に手放せるものなのか。確かに騙されたような気持ちにはなるかもしれない。でもそれは、決してゆずり葉のせいではないのだ。

「だったら二人とも、二人とも引き受けてやるわけには」

「そうだな、傍から見ているいわば外野の私たちには無責任な考えかもしれないが、それが一番いいんじゃないかとも思える、けどな出来上がってしまった家族の中にぽつんと一人で入ってくる娘さんは気まずいかもしれん。それにゆずり葉ちゃんの方もな。子供たちは悪くない、そうわかってはいても、頭ではっきりとわかってはいても、心情というものはどうにもこうにも難しいものでなぁ」

 いくら話しても堂々巡りで、正しい結論など誰にも分かりはしなかった。

 子供の洋平にも、大人の両親にも。

 ただ一人結論など全く気にせず、どんな深刻な話であろうと両親と兄が言い争おうと我関せずでデザートの苺ジャムあんこパイをもりもり頬張っていた希が一番の大物なのかもしれない。頬についた苺ジャムを拭った指をぺろぺろと嘗める弟の呑気な顔を見ながら洋平は苦笑した。

 事の成り行きは分かった。けれどゆずり葉の行方は結局知ることができないままだ。両親、今となっては両親だとずっと思っていた人たちが揉めた後、ゆずり葉は石神井のおばあちゃんの家に身を寄せていたらしい。

 一度遊びに来た時に顔を合わせたことがあるが、おばさんにそっくりの明るくにこにことしたおばあちゃんで、ゆずり葉のことを目に入れても痛くないとはまさにこのことだと思えるほど溺愛していた。

 あのおばあちゃんは真相を知った後どんな気持ちになったのだろう。ゆずり葉にはどう接したんだろう。

 あの愛情は、今は本物の孫に注がれているのだろうか。ならば今までゆずり葉に抱いていた愛情は、泡のように跡形もなくパッと消えてしまったんだろうか。

 それとも、滓のように心の奥に沈んで見えなくなっても微かにでも残ってはいるものなのだろうか。

 考えても考えても、洋平には大人たちの様々な思いが絡み合っているであろう心情を推し量ることはできようもなかった。

 願わくば最後のその時まで、ゆずり葉が真実を知ったその時まで、優しく変わりない愛情を注いで欲しかったと洋平は切に願う。

 例え、それが憐憫の感情による見せかけの愛情だとしても。

 そう願わずにいられなかったのだ。

 一身に愛情を受けて真っすぐ育って来たゆずり葉の心が、その惜しみなく与えられていた同じ愛によってぽきりと折られてしまうなんて、想像もしたくなかった。

 それこそが自分の欺瞞、軽はずみで浅はかな嘘っぱちの共鳴めいたものなのかもしれないと薄々気づきながらも、そうであってほしいと思わずにいられない。

 つい最近まで疎遠になっても仕方がない、それが成長するということなのだと斜に構えて大人ぶっていた自分の中でゆずり葉がどんなに大切な存在だったのか、かけがえのない友人であったのかと洋平はやっと気づいた。

 けれどもう、それをゆずり葉に伝えることはできない。もしもっと大人だったなら、どうにかして探し出すこともできるのかもしれない。しかし今の洋平はあまりにも幼過ぎて、その術を知らない。

 夏休みになったら、石神井に行ってゆずり葉から聞いていたおばあちゃんの家の近くの公園を訪ねてみるつもりだった。ひょっとしたらそこのバスケコートでゆずり葉と会えるかもしれない。そんな一縷の望みももう打ち砕かれてしまった。

 そこにもうゆずり葉はいない。いないのだ。

 目の前から消えてしまっても、いつかは再会できるのではないかとどこかで思っていた。まさか本当に二度と会えなくなるなんて、とても信じることが出来ない。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちになって、ゆずり葉がいなくなってはじめて洋平は一筋の涙で枕を濡らした。

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