第6話

 春が過ぎ、雨がしとしと降り続ける梅雨の時期が来てもゆずり葉の消息はようとして知れなかった。帰り際、少し足を伸ばして横宮家の前を通ってみたりもしたのだが、雨戸を閉め切っていて郵便受けには新聞が溜まり、人の気配が全くしない。駐車場にいつも止まっていたゆずり葉の父親、横宮のおじさんのミニバンもなくなっている。

「石神井のおばあちゃんの家にいるのかなぁ」

 独り言ちてみるが確かめるすべはない。あんなに仲の良かった家族同士であったというのに両親はまるでそんな一家は最初から存在しなかったかのようにぱったりと横宮家の話題を口にしなくなった。

 雨のせいか、息をするだけで溺れてしまいそうな気分の中、じっとりと濡れてジャージを通して肌に張り付いてくるようなレインコートにイラつき洋平はころりとアスファルトに転がった小石を蹴る。濡れているせいか、ぺたりとスニーカーの爪先に張り付いて振ってもふっても落ちなくて鬱陶しい。

「うぜぇ」

 仕方なくしゃがみ込んで小石を剥がしていると、目の前を尻尾の曲がった黒猫が通り過ぎて行った。

「あら、かぎしっぽの猫、でも黒猫ね、縁起がいいんだか悪いんだかわかりゃしないわ」

 ハスキーで雨のように湿ったその声に驚き振り返ると、そこにはよどんだ灰色の空気を切り裂くような目がしばしばするほどの鮮やかな真紅な傘を差した大人の女性が立っていた。

「鍵しっぽ?」

 思わず答えてしまうと、女性は傘をくるりと回しながらふっと微笑み頷く。そのぽってりとした唇も傘のように紅い。

「そ、しっぽが曲がっている猫はね、かぎしっぽの猫っていうのよ。ヨーロッパでは曲がったしっぽに幸運を引っかけてくれるから見るだけで幸運を運んでくれるって言われているそうよ。でもそれって珍しいからなんですって、日本じゃそうでもないものね、それに黒猫は不吉っていうじゃない。さっきの子はどっちなのかしらね、プラマイゼロかしら」

 初めて会う女性、けれどどこか知っている様な気がする。

 誰、誰なんだろう。

 知らない大人とこんな風に口を利くなんて初めてで、でもどうしても気になってしまい洋二はつい「あ、あなたは……」と口にしてしまった。

「あぁ私?キミのファム・ファタル」

「は!ふぁむ何?」

 呆気にとられる洋平の前で女性はサングラスを少しずらすと、「ふふっ、冗談よ。意味が分からないのね、自分で調べてごらんなさい?あーねぇ、キミこの傘を鳴らす雨音、何か調子っぱずれじゃない?パラン、ぽっぽつ、びしゃーんってさ、不協和音のさみだれね、音痴、音痴の雨だわ」呆気にとられる洋平の前で急に早口になってまくし立てた後、くすくす笑って赤い傘をくるりくるりと回して、踵を返してカツカツとこれまた真っ赤なピンヒールを鳴らし駅とは反対の方向に歩いて行った。

 曇天の空の下、赤い傘からぱしゃぱしゃと飛ばされた雨粒の隙間、サングラスを直す彼女の姿が少し滲む。

そこからちらりと見えたその目はきらりと光り、まるで猫のようだと洋一は思った。


その謎の女性の話を洋一は両親にすることがなかった。中学二年生とはいえまだ子供、知らない大人について行ってはいけない、声を掛けられても気軽に答えてはいけないとは学校や両親からきつく言われている。十年前に道を聞かれた女子中学生が車で連れ去られた事件をきっかけに、特に厳しくなったらしい。この時間には誰もいないが子供たちが部活から帰る時間になると、持ち回りで父兄がパトロールしているほどだ.

 そんな隙間の時間を縫って現れた謎の女性、怪しくないはずがないのだ。

 けれど、洋平には何かあの女性に引っかかるものを感じていた。怪しさだけではない、何か、それが何なのかは分からないが何かを感じるのだ。父の書斎のノートパソコンで調べたファム・ファタル、運命の女性であるとまではとても思えなかったが。

 それでもやはり気にかかるのだ。大人で、でもどこか少女のようなあどけなさも身にまとった猫の目を持つ不思議な女性のことが。

 そう、まるでかぎしっぽの猫に心を引っかけられたかのように。

 自分の不注意を叱られるのは勿論嫌だったが、それ以上にその何かを、女性に対して感じたものを両親には知られたくない、一言二言交わしただけの見知らぬ女性、もう二度と会うことはないのかもしれない。そんな女性とのわずかな時間を、洋平は両親、いや自分以外の誰にも知られたくはなかったのだ。

 消息のしれないゆずり葉、そして謎の大人の女性、洋平の胸の片隅には二人の女性がまるでこびりつくかのように住みついた。

 どちらとも、もう二度と会うことはないかもしれないのに。

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