第5話

「でも何度問い詰められても違うものは違うんです。何か間違いがあるんじゃないかと思って、私がその検査施設とかいろいろ問い合わせようと思っていて」

「そう、大変だったわね」

 母の相槌が聞こえてきて、洋平はハッと我に返った。

 自分は聞いてはいけないことをうっかり聞いてしまったのかもしれない。こんなことを聞いた後にのこのこ中には入っていけない。ゆずり葉の声は聞こえてこなかったから眠っているのかもしれないが、鉢合わせてしまったらどんな反応をしたらいいのか分からない。

 どうしようもない悶々とした気持ちを抱えながら、洋平は手すりに寄り掛かるようにしてゆっくりと階段を昇り、足をずるようにしてはしごを乗り越えるとすっかり冷たくなった布団の中へと潜り込んだ。

 こんな気持ちのまま眠れるわけがない、そう思っていたのに夜中の大騒動で知らず知らずのうちに疲れ切っていたのかいつの間にかぐっすりと眠ってしまった。

 母も気を使って起こさなかったのか、目が覚めるともう昼近くになっていて居間にはもうおばさんそしてゆずり葉の姿も無かった。

 ゆずり葉は一体どこに行ったのか、あの頬の腫れは父親にやられたものなのか、もし家に帰ったのなら大丈夫なのか。母に聞きたいことは山ほどあったが、昨日の思いがけない盗み聞ぎのことがバレてしまったらと思うと、気まずくて何も聞けない。

 母の方からもあの出来事には何も触れず、まるで何事も無かったかのように朝昼兼用のチーズパンケーキとアプリコットパンケーキにオレンジジュースを用意してくれた。

「あっ、これ、ゆ」

 ゆーちゃんが食べたがっていたと言いかけて口よどむ。別にゆずり葉の話題自体はタブーではないだろうし、ひょっとしたら食べたがっていた話を聞いたら母は喜ぶかもしれない。けれど気まずそうに黙ってしまうかもしれない。先に食べ終えてソファーに寝転がってテレビを観ている弟は、あの出来事について何も知らないのだから。

 横井家と小瀬川家はずっと家族ぐるみの付き合いだった。洋平が生まれてすぐに新興住宅地であるこの地に家を買って一家で越してくると、年齢は十歳近く離れてはいたが息子と同じ年の娘を持ち一年前に越して来た横瀬夫妻とすぐに仲良くなった。しばらくして母の妊娠が発覚すると、自分たちは家のローンがあるからしばらく無理だけどやっぱり欲しいなーととても羨ましがっていたそうだ。

 ゆずり葉の父はまだ若いけれどとても落ち着いた雰囲気でいつもにこにことしていて、寡黙ではあるが細やかに周りを気遣うとても温かく優しい雰囲気の人だった。仕事が忙しいとのことでここ数年は見かけることも少なくなってはいたが、たまに道ですれ違うとやはり優しくやわらかな笑顔で挨拶をしてくれ、とても娘の頬が腫れあがってしまうほどに打つようなことをするとは思えない。

 ならば母親の方かもと思っても、いつも明るく陽気なゆーちゃんちのおばさんがまさかと思うし、やっぱり謎だった。

 あれやこれや考えているうちに春休みの最終日はあっという間に終わってしまい、中学二年の新しい日々が始まった。

 けれどそこにゆずり葉はいなかった。

「えー、皆さんと二年三組の仲間になるはずだった横宮ゆずり葉さんですが、ご家庭の急な事情で東京に引っ越しされました」

 中一と同じく担任に決まった藤井先生の報告を受けて、ゆずり葉と仲が良かった数人の女子はざわめく。

「えっ、何それ何も聞いてないけどー」

「先週富士モールでばったり会ったときにさぁ、春休み最終日にみんなでカラオケに行く約束したのに連絡なしにドタキャンされたんだよねーあの子携帯持ってるから電話したのにずっと電源切れててさー」

「うわっ、ひどっ、そういえばさー」

 心配するどころかひそひそと始まってしまった悪口大会に、洋平は反論したい気持ちでいっぱいだった。

 それには事情があったのだ。とてもじゃないが連絡どころではなかったのだと。

 けれど、おとといの夜中に自宅に来てからその後何があったのか洋平は知らない。その上知っている情報もうっかり盗み聞ぎしてしまったものだ。

 もし実際に自分があの話を直に聞いていたとしても、ここでむやみに話していいような内容ではないのだが。

 ゆずり葉は無事なのだろうか、あの後また暴力を受けたりしていないだろうか。声が聞きたい。連絡したいと思うのだが、洋平はゆずり葉の携帯番号を知らない。小六の卒業式寸前、「中学の入学祝に石神井のおばあちゃんから子供携帯買ってもらうんだー」と楽し気に話しかけられたが、その後疎遠になってしまったため番号を聞く機会も無かった。久しぶりに並んで歩いたショッピングセンターの帰り道、あの時に聞いておけばよかったという後悔の念もあるが、まさかあの時はたった数日でこんなことになるとは思っていなかった。はたして番号を知っていたとして、今の自分にその番号に電話を掛ける勇気があるとも思えないのだが。

 おばさんが話していた事情、あのことをゆずり葉自身は知っているのだろうか。もし全てを知っているのならどれほどのショックを受けたことだろう。

 パーカーの裾を握っていた震える手、力なく落とした薄い肩が脳裏によぎる。あんなに弱弱しく頼りなさげなゆずり葉の姿を見るのは初めてだった。

 いつも元気いっぱいはつらつとして洋平の前を走っていたゆずり葉、凛とした真っすぐな女の子、あの時どれだけ胸を痛めていたのか。なぜ自分はあの震える手をそっと握って温めてやることすらできなかったんだろう。

 自分の不甲斐なさに、洋平の胸はキリキリと痛んだ。

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