第4話

 その日の夜、ゆずり葉の訪問の約束は直ぐに果たされることになる。

 しかし、それは洋平も、そしてゆずり葉本人も思い描いていたようなものではなかった。

 夕飯もとうに終え、家族全員が床に入り寝息を立てていた深夜二時、玄関のチャイムがけたたましく何度も鳴り、ドアをドンドンと叩く音もする。

「嫌だわ、こんな時間に何かしら」

 まず目を覚ました母が隣のベッドで眠る夫の肩をゆすったが、ぐるぐるといびきをかいて一向に起きる気配がない。

 時間をおいても鳴り続けるチャイム、そしてかすかに聞こえる悲鳴のような声におののいた母は、次に子供部屋に向かった。

二段ベッドの下に寝ている次男の希は父と同じくがーがーといびきをかいていたが、洋平は目をこすりつつもその体をベッドから起こしていた。

「母さん……あの音」

「そうなのよ洋ちゃん。お父さん起こしても全然起きなくて」

「あー、一回寝ると地震でもなかなか起きないもんね」

「お母さん一人で見に行くの怖くって、やっぱり通報した方がいいかしら」

「うーん、どうだろ、俺が見に行こうか?」

「あら一人じゃダメよ。お母さんも一緒に行くわ」

「じゃあちょっとのぞき穴から見て見て、怪しい人だったら110番しよっか。母さん携帯は」

「あらっ、慌ててて持って来てないわ。ちょっと待ってて。あー洋ちゃんは本当にしっかりものね。流石長男だわ」

 慌てて踵を返しつつも腕を伸ばしてぽんぽんと洋平の頭を軽く叩いてから廊下に出た母は、何かにつまずいたのかどでんと転倒してしまった。

「ちょ、ちょっと母さん大丈夫」

 慌ててベッドの梯子を下りて駆け付けると、前のめりに転んだのか母はうずくまりながら額に手を当てていた。

 ピンポピンポピンポーン

 その間にもチャイムの感覚は短く、一層激しくなってくる。

「あーどうしよう、洋ちゃん」

「母さんここで待ってて、俺ちょっと見てくるから」

 電気をつけてチャイムの主に気付かれぬように、豆電球のみついた薄暗い階段を壁に手を付きながらそろりそろりと降りていく。

 そしてドアののぞき穴から見えた顔は、よく見知った人の見たことも無い表情だった。

「あっ、おばさん、どうしたんですか?」

 洋平が開けたドアの内側に勢いよく飛び込んできたのは二件隣の奥さん、ゆずり葉の母親だった。彼女が握った手の後ろには真っ赤に顔を腫らしたゆずり葉の姿もあって、二人とも裸足だ。

「あ、えっと、取りあえず母さん呼んできます」

 階段を昇ろうとする洋平のスウェットパーカーの裾をきゅっとゆずり葉が掴む。その手はぷるぷると小刻みに震えている。

 その手を払うわけにも行かず動けずにいると、階段の上から様子をうかがっていたらしい母が小走りでつんのめり今にも転がり落ちそうになりながらばたばたと小走りに降りて来た。

「横宮さん、一体どうしたの?まっ、まさか強盗とか?通報、あっ電話……」

「あっ、いえ、そういうんじゃないんです。すみません、こんな夜中に」

「いえいいのよいいのよ、どうか家の中に入って。玄関じゃ寒いでしょう。まぁまぁそんな薄着で」

「いえ、あの、靴も履かずに出てきてしまって、汚してしまうので。ご迷惑でなければしばらくここにいさせていただけたら、静かにしておりますので」

「そんなことできますか!汚れたって拭けばいいだけよ。どうか入ってあぁゆずり葉ちゃんも寒いでしょう、お風呂に入る?」

 洋平のパーカーの裾を握ったまま静かに首を振るゆずり葉の腫れた頬にはつつーっと一筋の涙が伝った。

 一体何が起こっているのだろう。今日の夕方あんなにげらげらと笑い合って別れたばかりなのに。パンケーキを食べに遊びに来るって言ってたのに。

 洋平の頭の中は疑問符でいっぱいになって、どうしたらいいのか、何か声を掛けた方がいいのか、けれど一体この状況で何を言えばいいのかさっぱり分からなかった。

「どうしたー、何があったんだ」

 どたどたばたばたとした騒ぎに父も起きて来た。寝穢いと言っても差支えがないほど眠りをむさぼる父がこんな時間に目を覚ますとは実に珍しいことだ。それほどにこの玄関先での騒ぎは大きなものだったのだ。

「あっ、すみません」

 まだ玄関にいる横宮のおばさんは申し訳なさそうに頭を下げ、ゆずり葉は俯いたままだ。

 流石にこれ以上何もしないわけにも行かないと思うのに、洋平はただじっとしていた。

「あぁあなた、何でもないのよ。もう寝て頂戴。明日役所に遅刻しちゃうわよ」

 この状況を説明するのが面倒だったのか母はさっさと寝ぼけ顔で玄関に誰がいるのかも気づいていない父をさっさと追い払い、すたすたと風呂場に向かうとザーザーとシャワーを出し、お湯の入った風呂桶をもって戻って来た。

「ねぇ横宮さんもゆーちゃんも、足のことが気になるならこれで洗ってから上がって、ずっとそこに立って居られても私の方が気になっちゃうわ。ねぇ、私のためなのよ、ねっ」

 そして有無を言わさず二人に桶の中に足を入れさせ、タオルをひょいと渡すと居間の扉を開けて自分が先にすたこらと中に入っていく。

 気を遣わせないようにしたのかもしれないが、この状況に似つかわしくないそのざっくばらんな物言いと態度に呆気にとられたような顔をした横宮母子は、のそのそと用意されたスリッパを履いて母の後を居間へと進んでいった。

 けれどゆずり葉に掴まれていたパーカーの裾を離された後も、洋平はまだ一歩も動けなかった。一緒に居間に行くのも何か違うし、子供部屋に戻って眠る気も起きない。

「ちょっと、洋ちゃん。あんたもう寝なさい。子供は寝ないとすくすく育たないわよ」

 そんな洋平の気持ちを察したのか、母は今の扉からひょいと顔を出し、子供部屋に戻るように急かす。

 こう言われてしまっては玄関先でいつまでもぼけっと突っ立っているわけにも行かない。今の中にいるゆずり葉に後ろ髪を引かれるような思いを残しつつ洋平はしぶしぶと子供部屋に戻り、何事も知らずぐーぐーと呑気に惰眠をむさぼっている弟をちらりと見てベッドに戻った。

 しかし、一向に眠れそうにない。ベッドサイドの時計に表示される一分がまるで数十分に感じるほど長く感じる。それなのにいつの間にかカーテンのすき間からは白々とした朝の光が差し込んできて、自分が感じている時間がはたして長いのか短いのかすらも分からなくなってくる。

 あぁ、こうしてはいられない。

 何か出来るわけでもなく、何か掛けたい言葉が見つかったわけでもないのだが、洋平はベッドから飛び起き居間の前へと向かった。

 しかし、開けようとノブへと伸ばした指の先からぼそぼそと漏れ聞こえる話し声に気付くと、その指は止まってしまった。どうやら母とおばさんが話をしているらしい。邪魔をしてはいけないと止まったはずで、盗み聞ぎをしようと思っていたわけではなかったのだが、そのよく通る声は洋平の耳へと飛び込んできてしまった。

「ゆずり葉の背が高いことで、夫はここ数年私のことを疑っていたようなんです」

 その話は、洋平にとってあまりにも驚くべきものだった。

 ゆずり葉がお腹に宿っていることがわかり大学を中退して結婚した後、横宮夫妻は長い間次の子供に恵まれなかった。兄弟を作ってあげたいと産婦人科を夫婦で受診したところ、夫の突発性造精機能障害が見つかった。残念だとは思ったが、折角授かった一人娘を大事にしていこうと夫婦で話し合ったはずなのに、ここ一年あたり様子がおかしくなっていたのだという。

「それで、夫は私にも黙ってⅮNA検査をしていたようなんです。それで99・8%の確率で違うって出たみたいで……でも私には全く身に覚えがないんです。確かに夫の前にバスケ部の先輩と少しの間だけ付き合ってはいました。でも二人で食事に行ったり遊園地に行くくらいの子供みたいなデートをしていたくらいで、全く子供ができるようなそういう関係にはなっていなかった。キスだってほっぺたやおでこだけで、それは夫だって自分ではっきりと知っているはずなのに。だってそうなる前にあの人の方から自分にしろってかなり強引に迫ってきてそれで先輩とはそれっきりになったんですから」

 ゆずり葉の両親は小柄とまではいかないが二人ともごく平均的な中肉中背といった感じで、祖父母も大柄という訳でもない。それなのにぐんぐんと身長が伸びていき自分を追い越そうとまでしている娘に対し疑念がわいてきたのだという。そして頭に浮かんだのが妻の昔のボーイフレンドであるバスケ部の先輩のことだった。

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