第3話
「あー、もう、後ろ向いて」
ゆずり葉はあきれたようにフンっと鼻息を出すと、ポケットからはみ出していた持ち手を引っ張るがなかなか出てこない。
「もー、ギッチギチじゃん」
両手でぐいぐい引っ張ってやっとピンクの水玉がするりと抜けると、ゆずり葉は勢い余ってサッカー台にどんっとぶつかってしまった。
「あー、ごめん」
隠したバッグは結局ゆずり葉の手の中にあるし、その上こんな格好の悪い迷惑まで掛けてしまった。洋平の耳はじわじわと熱くなり、その場から消えてしまいたいようなバツの悪い気持ちになってしまい俯いた。
「まー、いいけどさ。バッグちゃんとあるんだからそのまま持って帰ればいいじゃん。何でポケットになんか突っ込んだの?」
「あ、何か柄が……」
「ひょっとして恥ずかしかったの?水玉くらい別に男も持つでしょ。だって小瀬川だって幼稚園の時ピンクのハート水玉のパジャマがいお気に入りで、お泊り保育にも着て来てたじゃん」
おっしゃる通り、その通りではあるのだが、洋平はもう中学生、四歳児の頃とは事情が違うのだ。
「まーいいや、そんなに恥ずかしいならあたしが代わりに持ってあげっからさー。家の前まで来たら返してあげるって、ほらっ、こっちに貸しなよっ」
洋平はコクコクと頷き、ゆずり葉の申し出に甘えることにした。見られるのが恥ずかしかった相手に代わりに持ってもらうという矛盾のことはもう考えないようにして。
「あー、アプリコットジャム、なっつかしーなー、洋ちゃんママのアプリコットパンケーキめっちゃ美味しいよねーまた食べたーい」
家路へと着く帰り道、水玉のバッグをぶんぶん振り回しながらゆずり葉は空を見上げてふっとため息を吐いた。
幼いころはお互いの家を毎日のように行き来し、おやつをモリモリ食べて「ゆーちゃんの食べっぷりは見ていてスカッとするぐらい気分がいいわ。うちの洋ちゃんもこれくらいいっぱい食べてくれればいいんだけどねぇ、どうにも偏食で小食なのよ。さぁ、じゃんじゃん食べてね」「はーい、洋ちゃんママのパンケーキだーいすきっ、毎日いっつでも食べたい」「うふふ、うれしいこと言ってくれちゃって」などと息子そっちのけで母に可愛がられていたゆずり葉であったが、高学年になりミニバスケで忙しくなるとその感覚はどんどん開いて行き、中学に入ってからはその姿を家で見ることも無くなり、洋平もまた彼女の家に行くことはなくなっていた。そもそもゆずり葉の家に行くときは決まって向こうから迎えに来ていて、洋平が自分の意思で訪ねて行ったことは物心ついてからの記憶では一度も無かったのだが。ゆずり葉は自分の気分で洋平の家にやって来て、自分の気分で洋平を呼ぶ。子供時代の二人の関係は、その身長差があらわすように圧倒的にゆずり葉が上位で洋平はただ言われるがままに引っ張られそのあとをついて行くだけだった。
だから、中学に入ってゆずり葉がそれまでの洋ちゃんという呼び名から小瀬川と変えたときは洋平もそれにならってゆーちゃんから横宮へと苗字で呼ぶようになり、同じクラスにはなったものの相手が声を掛けてこない以上こちらから近寄って会話をするようなこともなくなっていた。
いつも一緒だった相手が急に他人のように思えて少しばかり寂しいような気持ちも覚えたが、そもそもが小学校の高学年になるまで男女の幼馴染が親しく家を行き来していたことの方が珍しいのだろう。こうして段々離れていくんだろうなと納得していた。
洋平が今のゆずり葉について知っていることと言えば、やはり今でも自分より頭一つ分大きい。ただそれだけだった。
母のアプリコットパンケーキが食べたい。そう言ったゆずり葉、これは家に誘うべきなのだろうかと思いつつも、そんな関係性で洋平からゆずり葉を気軽に誘うことなど出来ようはずもない。
「あぁ、そっ」
しばらくの沈黙ののち洋平が発したのはただそれだけの相槌とも呼べないものであった。
「ふーん、冷たいんだ。家によって食べなよとかさぁ、気の利いた事言えないんだねーまー洋ちゃんらしいけどぉ」
不満そうにぷーっと頬を膨らませ口を尖らせたゆずり葉は、一年ぶりに洋平のことを洋ちゃんと呼んだ。
「あ、いや、ゆーちゃん家に来たくないのかと思って」
それにつられて洋平も昔の呼び名に戻る。
「あっ、洋ちゃん、すっごい久しぶりにゆーちゃんって呼んだね?」
ゆずり葉はパッと明るい笑顔になってくるりとこちらを向く。くるくると変わる表情、気分屋のゆずり葉、こっちの方がよっぽど自分より気まぐれな猫のようだ。
洋平は急に可笑しくなってぷっと吹き出してしまった。
「何よー、あたし何か変なこと言った?」
また頬が膨らむ。洋平は腹を押さえてケタケタ笑った。
「ううん、ゆーちゃん猫みたいだなって」
「それは洋ちゃんでしょ。猫顔洋平」
「だからそれゆーちゃんしか言わないし」
「そんなことないよ、洋ちゃんの猫目、クラスの女子の間で結構話題になってるし、なんかさぁ、可愛いとかぁ」
声がどんどん小さく掠れていくのと同時にゆずり葉の眉が下がっていく。どうやら自分の顔のことで気分を害しているようだ。
「何か、ごめん」
「へっ、何で謝る?」
「だって、横宮機嫌悪そうだから」
「また横宮かぁ」
への字に曲がる口、どこか泣きそうな顔にも見える。
「けど、そっちから中学に入ったら名字で呼び始めたから、俺だけゆーちゃんとか呼んでたら変だろ……」
洋平の言葉に、ゆずり葉はますます口をぐぐっと曲げる。
「違うよ、洋ちゃん覚えてないの?名字で呼んだのそっちが先なんだよ」
全く身に覚えがない。洋平は小首をかしげてしばし考えてみたが、やはり全く何も思い当たることが無い。
「覚えてないの?」
不機嫌そうに低くなっていくゆずり葉の声に小さくこくりと頷くと、はぁーっと深いため息とともに洋平にはほんの些細に思えるけれどゆずり葉にとっては機嫌を悪くするに値したらしい出来事がぽつりぽつりと語られた。
「中学の入学式の時さ、洋ちゃん他の小学校から来た子に同小の子誰って聞かれてたでしょ、あの時横宮って言ったでしょ……」
覚えていない、がそんなことがあったかもしれない。しかし、同じ小学校の同級生ならともかく別の学校から来て顔を合わせたばかりのクラスメイトにいきなりゆーちゃんなどとニックネームで呼んでも通じないし、「それ誰のこと?」などと聞かれて結局苗字と共に説明しなければならない。そんなのは二度手間ではないか。
「だって、よその学校の子だよ?ゆーちゃんって言っても通じないじゃん」
こんなことで自分は叱られているのか。あまりの理不尽さに今度は洋平が口を尖らせる。
「だけどっ、いきなり他人行儀に苗字呼びされてるの聞いてさ、あたしがどんだけ寂しかったと思ってんの!」
ゆずり葉もますます口を尖らせて、まるで喧嘩した子供の蛸たちが威嚇しあって今にも墨を吐きだしそうに見える。
本人達も不機嫌そうににらみ合いながら互いのその表情に耐え切れなくなり、同時にぷっと吹き出した。
「ぷぷっ、やだー何そのとんがり口、蛸みたい、猫蛸だぁー」
「そっちこそ、ほっぺた膨らませて口とんがってさ、フグ蛸だ」
「何それ、失礼すぎ!」
「そっちこそ」
他愛ない言い合いを続けながら二人の表情はどんどん緩んで、そのうち大声で笑い始めた。
声変わりもまだのあどけない少年の声と少女の甲高い声は混じり合ってやがて溶け合う。自分達でもどちらがどちらか分からないように。
「あのさ、さっきのことだけど。母さんに今日パンケーキ作ってもらうように頼んでみるからさ、この後家に来る?」
笑いつかれた後、息も絶え絶えに発した洋平の誘い文句にゆずり葉は一瞬にこっと嬉しそうに笑った後、ゆっくりと首を振った。
「あーめちゃくちゃ行きたいんだけどさ、今日うちで野暮用があんの。だから早く帰らないといけないんだよね。そのうち行くからさ、また誘ってよ」
「何だよ、結局断るなら誘わせるなよ」
「ふっふーん、あたしモッテモテー。マジモテ過ぎて困っちゃうー」
「ちょっ、そんなんじゃないだろ」
「ふーんそんな口答えしちゃうんだ。洋ちゃん前はあたしのいうこと何でもうんうん聞いてくれてさー、可愛い弟みたいだったのにさぁ」
「可愛くねーし、それに弟って三か月しか変わらないだろ」
「でも上は上だしー、あっ、身長も」
額からすっと伸びた長い腕は、洋平の頭上の空を掠める。
「言ったなー俺の身長めっちゃ伸びたんだぞ!すぐに追い越してやるから!」
「ほー楽しみにしてますよー」
「はー、言った。言いましたね!覚えてろよっ!身長越したら俺が兄ちゃんだ」
「はいはーい、あっ、じゃあこれ」
言い合いをしているうちにいつの間にか洋平の家の前まで着いていて、ゆずり葉はサッと洋平の手にショッピングバッグを渡してからするりと横をすり抜けていく。
暮れゆく陽の光に照らされた影が、ずるりと長くのびる。
すれ違う足元のそれは、頭一つ分どころでない差があるように思える。
気のせいだ。ただの夕暮れの悪戯。こんなことは気にならないと思っているのにやはり気になる。
「じゃーねー、ほんとにさ、すぐに近いうちアプリコットパンケーキ食べに行くからねー」
紅い光に照らされたゆずり葉の顔が少し悲し気だったことに、ちらりとも気が付かないくらいに。
こんな些細で大人になったら笑い飛ばせるようなことが、洋平にとって一番の悩みだったのだ。
平穏で平凡な日々、わざわざ意識せずともこの生活がずっと続くものだと思い込んでいた。微塵も疑う余地もなく。
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