第2話

 十四年後春、中津青年はとうに町を去り、件のコンビニも歯科医院へとその姿を変えた。そして同じ埼玉県内とはいえ二百キロほど離れたこの富士遠見市の子供達は、十四年前にそんな事件が起きたことなど誰一人として知りはしない。

 明後日、中学二年生へと進級する予定の小瀬川洋平も勿論その一人だ。

 地元の役所勤めの父、フラワーアレンジメント教室でアシスタントをしている母、二歳下の少しやんちゃな弟、日本中どの町にもいるようなごくありふれた平凡な家庭、その平凡さはパワーの有り余っているやんちゃな弟には少し退屈なようではあったが、洋平は自分の生活に特に不満を感じることはなかった。

 成績は中の上、容姿、これといって可も不可も無し。親の欲目というのもあるのだろうか、母は「洋平の目はぱっちりして鼻筋も通っているし小瀬川家一のイケメンだわー、竹下通りに行ったらスカウトされて名刺を両手いっぱいもらっちゃうんじゃないかしら」などと、思わず赤面してしまうような恥ずかしいことをたまに口にするが、そんなことありようはずもない。目は確かに家族の中では大きい方だと思うが、二軒隣に住む幼馴染みのゆずり葉からは「洋ちゃんの目ってうちのミーコにそっくり、猫ちゃんみたい。ねぇ、ニャーって鳴いてみなさいよ」などと幼稚園の頃から散々からかわれている。

 まぁ、小学校からの悪友である中川からはその大きな目と目の間が少し離れていることもあり、出会ったばかりのころはヒラメ顔のヨーヒラなどと呼ばれていたこともあるので、それに比べたら可愛いからかいと言えなくもないのだが。

 猫と魚、捕食者と被食者に例えられるなんて、何だか妙なことだなと思わなくもないのだが、それ以上にせめて人間に例えてくれよなと洋平は小さくため息を吐く。

 

 横宮ゆずり葉、夏生まれの洋平より三か月だけ早い四月に生まれた彼女は、幼いころから頭一つ分ほど背が高く、洋平の身長が伸びればそれ以上にめきめきと成長し、小学校に入っても中学生になって洋ちゃんではなく小瀬川と呼ばれるようになっても、その差だけは縮まることはなかった。

「俺だって、そこまで小さいわけでもねーんだけどな」

 一年前、中学に入学して初めての身体測定で計った洋平の身長は150・8センチ、目いっぱい背筋を伸ばし踵を若干浮かしたが平均にはわずかに届かなかった。しかし、小学校を卒業したばかりの十二歳ならこの程度の身長は男子でもさほど珍しくない。

実際洋平より背の低い子はクラスに数人ではあるがいることはいるのだ。

 けれど、ゆずり葉の身長は164・9センチ、14・1センチもの差があるのだ。

 自身の身長を告げられた後何となしに隣の女子の列にちらりと目をやるとちょうどゆずり葉の番で、いつもはピーンと伸びている背筋が少し丸まっていた。あれが無ければ165センチを超えて差が余計に広がっていたことだろう。女子では勿論一番の高身長だが男子生徒ですらゆずり葉より背の高い子はクラスに一人しかいない。特別に背が高いとは分かってはいるのだが、流石に15センチ以上の差が開くと気持ちが凹んでしまうところだった。たった数ミリけれど数ミリの洋平にとっては大きな数字。

 中学に入るとその背の高さからバレー部やバスケ部などから引く手あまただったゆずり葉であったが、小学生時代に活躍していたミニバスケで腰と膝を痛めてしまったのでもう続けられないときっぱり断っていた。

 身体測定の時も急に腰が痛んで、背中を丸めてしまったのかもしれない。

「ねぇ洋ちゃん、洋ちゃんもミニバスやりに市民体育館おいでよー、あたしみたいにすらーっと背も高くなるかもよ」何度もしつこく誘われ根負けして数度見学に行ったことはあるのだが、やはりミニバスケを好んでやるような子供は背が高い子ばかりで、数人だけいる小さい、けれど洋平よりは大きな子たちはおろおろしながらその横をくるくる回っているだけ。すっかり委縮した洋平は結局断ってしまった。しかしイキイキとコートを駆けまわりボールを放っていたゆずり葉の楽しそうな笑顔と踊るようにきらきらとはじけ飛ぶ汗のことは、今でも記憶にはっきりと残っている。

「あんなにミニバス好きだったのにな、もう続けられないなんて可哀そうだよな……」そうは思う、思うのだが、やはりこれ以上の身長差が数字上だけでもつかなかったことに洋平はホッとしていた。そんな自分が少々格好悪い、ゆずり葉を思いやってやれない自分が恥ずかしいとも思うのだが、いかんせん思春期真っただ中の十三歳少年にとって、これは大きな問題なのだ。

 明後日中二の始業式を迎えたらまた身体測定がある。昨年はひどく憂うつな気持ちになったものだが今年の洋平は一味違う。大台の160を超えていることが分かっているからだ。中一の秋を迎えてから膝がミシミシと痛むようになりそれから身長が一気に伸びた。

春休み目前、162センチの母と目線が同じになったことから洋平は自分が大台を超えたことを確信した。そして日曜日の塾の帰り道、母が働いているフラワーアレンジメント教室のあるコミュニティセンターの隣の健康センターに寄ると、こっそり自身の身長を計った。

 すると大台突破どころか163・5センチ、中二男子の平均身長すらも上回っているではないか。春休みに入ってからも短い期間で少し伸びたような気がする。これは初めて身長差が頭一つ分から抜け出せるかもしれない。女子の身長はそろそろ落ち着くだろう。そうしたら追いつくどころか追い越して、いずれは見下ろすようにも。

 うきうきして新学期を待っていた洋平の期待は、春休み最終日に無残にも打ち砕かれた。母の遣いで買い物に来た駅前のショッピングセンター、ジャム売り場で頼まれたアプリコットジャムを探していると突然トントンと背中を叩かれた。ぎょっとして振り向くとそこには口をへの字にして機嫌の悪そうなゆずり葉の姿があった。

 曲げていた腰を伸ばして見上げたその顔は、やはり頭一つ分大きい。休みの間にゆずり葉の身長もまた伸びていたのだ。

「ちっ、やっぱデカっ」

 悔し紛れについ口から飛び出してしまった洋平の言葉に余計機嫌を悪くすると思ったゆずり葉の顔はみるみる紅潮し、薄い唇はぷるぷると震え、切れ長の目の端にちらりと光るものが見えた気がした。

「あ、あっ、ごめん。そんなつもりじゃ」

 言い訳しようとする洋平に何も答えず、ゆずり葉はくるりと背を向けて逃げるようにしてタッと走り去ろうとした。

「待って、待てよー」

 思わず腕を掴んで引き留めてしまったが、どうしたらいいか分からない。右手にアプリコットジャム左手にゆずり葉の腕、そのまま洋平は固まってしまった。

 それから何十秒、いや何分経っただろうか。やけに長く感じる沈黙の後、「ちょっと痛いんだけど……」やっとゆずり葉が口を開いた。

「ご、ごめん」

 パッと手を離すと、今度は良平が握りしめたアプリコットジャムをまじまじと見つめる。

「ねぇ、それ買うの?買わないの」

「あっ、買う、買うよ」

「じゃあ早くレジに行きなよ。そんなに握りしめてたらあったまっちゃうよ」

「お、おう」

 すっかりいつも通りになったゆずり葉に戸惑いつつ洋平は小走りでレジに向かう、ちらちらと振り返って確かめてみるが、どうやらさっきのように逃げ出そうとする気配はなく洋平の数歩分後ろからゆっくりと後をついてくる。

 何となくホッとして会計を済ませると、いつの間にか先回りしていたゆずり葉はサッカー台にもたれるようにして所在なげに長い黒髪の先をくるくると指先に巻き付けては放しを繰り返していた。

「あ、横宮また……」

 待たせたなと言いかけて洋平は口よどんだ。見たところゆずり葉の様子は洋平を待っているようにも思えるが、確実にそうと決まったわけでもないからだ。しかし、自ら引き留めてしまった以上何も言わずにいるわけにもいかないだろう。まごまごしながら母に持たされたショッピングバッグをいじっているとそのピンクの水玉模様が無性に恥ずかしくなってきてジーンズの尻ポケットに買ったばかりのジャムの瓶ごと無造作に突っ込んだ。

「ちょっとーお尻膨らんでパンパンだよ」

 その様子を見たゆずり葉は腹を抱えるような勢いでケラケラと笑いだす。恥ずかしくなってまた取り出そうとするが、びっちりと尻ポケットに収まってしまったバッグはなかなか出てくれない。

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