家異物(かいぶつ)~便所の息子~
くーくー
第1話
2000年7月7日、明け方に近い深夜三時半過ぎ、コンビニのアルバイト店員の中津は不審な物音を耳にし休憩室のロッカーから防犯用の刺股を取り出して恐る恐るトイレへと向かった。
埼玉県の私鉄沿線の小さな雑居ビルの一階にあるこの店舗には店内にトイレはなく、わざわざ廊下を挟んだ突き当りのエレベーター横まで行かなければならない。
そのため休憩室の防犯カメラ映像にもトイレ前のことは映されていなかった。
「あぁやってらんねぇ、何でこんな時に限ってよー」
ぶつくさと文句をつけても他の店員が付き添って行ってくれるわけではない。一昨年同じ市内の系列のコンビニにカッターを持った強盗が押し入って以来、深夜のワンマン・オペレーション体制は禁止になった。そのためどうしてもバイトのシフトが決まらない時はオーナーかその妻がヘルプに入ることになっていたのだが、今日は勤務五分前に同じ大学のバイト仲間の垣内が「腹痛で休みまーす。いやーすんげ腹いって、いてててて、ヤッバ、ひゃはははは」とガヤガヤと騒音に紛れた明らかに酒に酔っているのであろう呂律の回らない声で電話をしてきたうえ、オーナー夫妻は息子夫妻と孫と共に温泉旅行中で連絡の取りようがない。緊急のためにと携帯電話の番号は一応知らされてはいるが、こんな時に電話するなど無粋である以上にもしとんぼ返りをしてもらっても到着するころには勤務時間の半分は過ぎているだろう。そのためやむなく初めての一人勤務をしていたのだが、こんな時に問題が起きるなんてつくづく自分はついていないと思い溜息を吐きつつゆっくりと廊下の先へと歩を進める。
ゆっくりゆっくりそーっとそっと、注意を払って一歩一歩足を進めていたはずなのに中津の足はつるりと何かに滑ってしまい刺股を取り落してしまった。
「ひゃっ、なんだ、今日雨なんか降ってねぇのによぉ、くそっどうせ便所から手を洗ってびしょびしょのまま出てきたヤツのせいだろっ!あーイラつくわー」
ぶつくさと独り言ちながら刺股を拾おうとした手は、その足を滑らせたものの正体に気が付いてひたと止まった。
薄暗い照明の下、点々としかしべったりと廊下を濡らしていたのは水ではなく赤黒い液体であった。
「ひゃっ、こ、これは……血……」
花粉症のせいでぐずぐずする鼻を啜りすんすんと必死に嗅ぐと、やはりどことなく鉄臭いにおいがするような気がする。
「け、警察に……」
引き返して通報をすべきだとは思うのだが、この血の先に下手したら虫の息で倒れている人がいるのかもしれないと思うと、竦む足は電話のある店内とは逆方向のトイレへと向かっていた。
点々と続くその血痕のようなものは女子トイレでも男子トイレでもなく、その中央に元々あったコインロッカーを除去して最近設置されたばかりの多機能トイレの前で止まっていた。
「あぁ、女子トイレでなくてまだ良かった」
恐怖と不安と正義感のような気持ちが入り混じって強張っていた中津の顔は、そんなどうでもいいような安堵感で少し緩む。
やはりこんな夜更けに防犯のためとはいえ女子トイレに入り込むのは、気が引けたのだ。
「あぁ、こうしてはいられない。早く確認しちまわないと、まぁどうせ何もねーわ、うん、そうだな、ただの風の音だろ」
自分に言い聞かせるようにして鍵のかかっていないその扉を開けると、そこには思いもかけない光景が広がっていた。
トイレの白い床をやはり点々と濡らす血の跡、その先の便器の中には薄紅色に染まったトイレットペーパーが水を全て覆い隠すほどに丸めて入れられていて、その上には真っ白な人形のような物が置かれていた。
「は、な、何だ誰かのいたずらか?こんなモン置かれたら便所詰まっちまうじゃねーか」
人形だ、これは人形なのだ。そう思い心を落ち着けようとするのだが、中津の声はぷるぷると震える。
これが人形なら、じゃああの血痕は何なのだ。その疑念が一向に小さくならないからだ。
このままトイレのドアを閉めてしまい、なにも見なかったことにしてレジに戻って朝を迎えてしまいたい。
そう思いはするのだが、足が釘付けになってしまい一歩もそこから動けない。
もしかして、もしかしたらこれは……一つの考えが、頭を埋め尽くしていったからだ。
「あぁ、ひょっとして、いやしなくてもこれって……」
ガタガタと震える腕を何とか伸ばし、トイレの中のその白く小さな塊を指でつついてみる。
「赤ん坊……」
あまりにも小さく、鳴き声の一つも上げない。生まれたての赤ん坊は紅い顔をしているものだというのにこの子の顔は転がったトイレットペーパーよりも便器よりも白く全く血の気がない。
「ひょっとして、こ、これって、し、死んでるんじゃねーか!」
後ろ手に手を付きその場にへなへなとへたりこんだ中津は、その白い顔で唯一色を感じる唇がぴくりと動いたのに気づき、便器に手を付きながら腰を上げ赤ん坊をその中から引きあげた。
「冷たい……」
体温をほとんど感じないほどに冷え切ったその体、しかし大量のトイレットペーパーの上にいたせいか少しも濡れてはいない。
抱き上げても赤ん坊は泣き声一つ上げず目を開けることも無かったが、先ほどの唇以外にも自らの腕に触れた豆粒よりも小さな小指がやはり少し動いた気がする。
「あ、案外、お、重めぇな……」
小さく、余りにも儚げなその白い命は、意外なほどにずっしりとした重さを両腕に伝えてくる。ぎょっとするほどの冷たさよりもその重さが中津の手をより一層震えさせた。
「あぁ、ヤバい。落としたらヤバい……これでコロっといかれたら俺がヤバいことになるじゃねーか」
何故物音に気付いてしまったのか。
ここはコンビニのトイレではないのだ。もし明日の朝ビル清掃のおばさんが来るまで見つからなかったとしても、自分が責任を負うことはなかったのに。
面倒なことに巻き込まれてしまった。どこまで自分はツイていないのだろう。
それもこれも飲み会でバイトをサボりやがった垣内のせいだ。
赤ん坊の命があったことにホッとするというようなことには至らず、中津は自分の不運を嘆いた。
確かに今はまだ息がある。
けれど、その命の灯は今にも消え入りそうなのだ。もし微かに揺らめくその小さな灯がフッと消えてしまったなら、それは自分のせいということになるのだろうか。
あぁ、重い、こんなことは一介のコンビニバイトである自分には重すぎるのだ。
「やっぱり、ペータンの言う通り居酒屋バイトにしときゃぁ良かった」
高校の連れに誘われたが、駅から遠いという理由で断ってしまったバイトのことが胸をかすめる。
そんな中津の胸の内を見透かすように腕の中の赤ん坊はより一層重さを増したように感じた。
そうだ、こんな風につらつらと下らないことを考えているうちに、この赤ん坊の命は本当に燃え尽きてしまうかもしれないのだ。
そうなったら、モタモタしていた自分の責任を本当に問われかねないかもしれない。
「こうしちゃいらんねー、きゅ、救急車、救急車だ、えっとなんだ、110じゃなくて、そうだ、あれだ、あれだ。やった感、俺ちゃんと助けるってやった感出しておかねぇと」
慌てた中津はへっぴり腰ながらもゆっくりゆっくり赤ん坊を休憩室に運び、乾いたタオルに包んでから119番に通報した。
「す、すんません、すんません、あ、あかんぼう、赤ん坊が、便所、便所に」
あえて演技をするまでもなく、その通報の声は緊迫感をふんだんに醸し出していた。
未熟児の上弱り切っていた赤ん坊だったが、発見が早かったのと水に浸かっていなかったことが幸いしてなんとか一命をとりとめ、中津は一時町のヒーローのような扱いを受けた。
ワイドショーがコンビニに取材に来て温泉帰りで血行の良いつやつやの肌をしたオーナー夫妻がホクホク顔で取材に答え、「えぇ、中津君って本当に真面目でいい子なんですよー
こんないい子がうちでアルバイトしてくれてね、実に助かっています」「ツンケンした今どきの子とは思えないほど人情があって正義感が強くてねぇ、困っている人を見過ごせないとても優しい子なんです」などと一度も言われたことのない美辞麗句を並べ立てられ、物物見遊山の買い物客が多数訪れたことから金一封の五千円ももらった。
まぁ、翌日の深夜に元お笑い芸人がナンパに失敗し相手の女性に元相方だったらついていったのにと吐き捨てられたことに激高し、女性の髪を掴み公衆トイレに引きずり込もうとしていたところをパトロール中の警官に現行犯逮捕されるというスキャンダルが起きるとワイドショーはそれ一色になり、あっという間に忘れ去られ三日天下どころか一日も持たずに世間からすっかり忘れ去られることになったのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます