第28話
最後まで彼女を愛さなかった父親も、そして彼女のことを目を閉じる最後の最後の瞬間まで愛し続けた村田明も、小原涼子の人生から永遠に去った。
涼子は意気揚々とソロデビューの相談をしに社長の元へと向かったが、社長は二度と涼子に会うことはなく、秘書づてに百数十万の入った封筒を渡してきた。「そのお金で例のものを始末してください、残りは差し上げますからどうぞご自由にお使いください。とのことです」秘書の言葉は抑揚がなく、実に淡々としていた。
涼子に残ったのは現金の詰まったパンパンに膨れた封筒と、それ以上にぷっくり膨らんだ腹の中の新しい命だけだった。
そして、これからのことをゆっくり考える暇もないほどに腹の中の命は早く出たいと涼子の中を暴れまわり、コンビニのトイレに産み落とされることとなる。
「これ、なんだろう。この赤いヤツ」
自分の中から現れた新しい命を、涼子はしばしぼーっと眺めた。
「わからない、いらない」
涼子はそうつぶやくと、その場から立ち去った。
しかし、水の中につけたままにはせずその体を染めた赤い鮮血をふき取り、ぐるぐると丸めたトイレットペーパーの上に赤ん坊を置いたのは母親としての本能なのか、少しでも目の前の命に愛情を感じたからなのか、それは涼子本人にも計り知れない行動であった。
白い腿に赤い鮮血をたらたらと流しながら倒れたとき、涼子は眩しい光に照らされたような気がした。
あぁあぁ、照らされている。やっぱり光っていいなぁ。
考えるのはさっき捨てた子供のことではなく、やはり照らしてくれる光のことだった。
不運な生い立ちである。恵まれない人生を送ってきた気の毒で持たざる少女である。小原涼子の半生を知る者たちは口々にそう言う。
けれど、小原涼子本人は一度もそう思ったことはなかった。
何も持っていないのなら、持っている者から頂いてしまえばいいから。
欲しいものが何もないのなら、誰かが欲しがっているものを奪って手に入れればいいから。
無から有は生み出すことができない。
けれど、この世の中には溢れるほどの物も夢も路傍の石ころのようにごろごろ転がっているではないか。
それを、自分が残さず拾い続ければいい。
夢も希望も手に入れるだけのチャンスは、無数にあるのだ。
そして、それを実現できるだけの魅力が自分にはあるのだと、人々との出会いによって涼子は熟知していった。
小原涼子は、決して嘘をつかない。
例えそれが目の前にある事実とまるで違っていたとしても、涼子が口にする真実はすべて彼女の中で正しくある。
何を口にしようが、どう動こうが、それはその時の彼女にとって真実そのものなのである。
心のままに。思うがままに。そう振舞うことが、彼女にとっての唯一正しい道なのだ。まっすぐに目の前に広がる道、それをただひたすらに歩いてゆけばいいだけだ。
記者会見後、世間は小原涼子の話題でもちきりだった。
質疑応答中、彼女の背後にはずっと主演映画のポスターが映っていて、映画についての発言は一言もしなかったにも関わらず一気に注目を集め、独立系映画でありながら上映を希望する映画館が殺到し、撮影中の現場には週刊誌の取材が駆けつけ、地下アイドル時代の唯一のメジャーシングルである【ルック!ルック!ルックミー★】は再販が決まり、自主製作盤はネットオークションで価格が高騰する。
まさに、小原涼子バブルといっていいような現象だった。
主演女優と交際のうわさがあった好色で有名な審査員に近づき、助演女優賞のノミネートに何とかこぎつけたワールドインディーズダイヤモンドシネマ国際映画祭の時ですら、スポーツ新聞の中面に小さな豆粒のような記事が載っただけだったというのに。
脚光を浴びる、小原涼子はその言葉の意味を初めて実感した。
そしてその熱狂の最中、一人の少年の運命の歯車も再び回り始める。
小瀬川洋平が、昏睡状態から意識を取り戻したのだ。
目覚めた洋平のうっすらと靄のかかったような白い視界に最初に飛び込んできたのは、涙でくしゃくしゃになっている両親の顔だった。
そして、その傍らにはぎゅっとその手を握っているゆずり葉、腹の上に覆いかぶさるようにしがみついている弟の希、洋平を想う人、その全てがそこにいた。
詳しい話を聞きたい、刑事が何度も病室を訪れたが、そのたび母が「もう少し待ってください。息子は意識を取り戻したばかりでまだ具合が良くないんです。気持ちも動揺しておりますし、中学生のまだまだ幼い子供なんです。どうか、お願いいたします」と追い返す。リハビリもあり、まだ朦朧としている記憶もあるのだと。
そうして母が作ってくれた時間で、洋平はゆずり葉と二人きりの時間を暫く過ごすことができた。
「辛かった、自分が祝福されることのなく生まれてきた命だとわかってしまって、何のために自分はここに存在しているんだろう。自分の命がこの世界において何の意味もないんじゃないかと思えて、もう消えてなくなってしまいたかった」
あの日乾いていた目からはとめどなく大粒の涙があふれ出て、ゆずり葉はその胸をどんどん叩いてからしがみつき、共に泣く。
「バカ、バカ、バカ、洋ちゃんが消えたら悲しむ人がいっぱいいっぱいいるんだよ。消えたかったなんて言わないで。あたしは、あたしは、洋ちゃんにいて欲しい。ずっといて欲しいよ。それだけでも意味があるって思ってよ。意味がないなんて言わないで、あたしも洋ちゃんパパもママもそれにノンタンだって、洋ちゃんがここに存在してくれて、そんであたしたちと出会ってくれて良かったって思ってるのにさ、そんなこと言われたら寂しいじゃない、さびしくてたまんなくなっちゃうじゃんかよーうっ、ううう…」
あの日、洋平の前から小原涼子が去った日、夾竹桃の水差しをもってふらふらと地上に上がった洋平は発作的にその水を飲み干した。
意識を失う寸前、ポケットから取り出した携帯電話の画面を撫で、ゆずり葉のことを想う。
充電をしていなかった携帯電話の電池は、とうに切れているはずだった。
小屋の中は、電波の圏外のはずだった。
しかし、携帯を持ち慣れていない洋平はぷっぷっという音で自分の電池も切れたと思い込んでいたが、実際はゆずり葉の方だけでわずかに残っており、倒れた拍子にぽろりと手から零れ落ちた携帯電話は、奇跡的に微かに電波の拾える縁側へと転がって行った。
充電中の携帯電話に洋平からの着信があるのに気づいたゆずり葉はすぐにかけ直したが、いつまでたっても出ない。
留守番電話には、ガタガタズズーっと何かが滑る音だけが入っている。
胸騒ぎがしたゆずり葉は、直ぐに119番と110番両方に通報した。
そのおかげで洋平は、なんとか命を繋ぎとめることができたのだ。
この世界と自分を繋ぐ人、繋ぎとめていてくれる人。
それは、洋平にとってのゆずり葉だったのだ。
自分の胸にすがっておいおいと泣きじゃくる女の子、顔がくしゃくしゃになるのも鼻水が垂れているのも、そんな見栄えは全然気にせずに、ありのままの自分への感情を直接ぶつけてくれるほっこりと温かい体温を持つ幼馴染。
あの日何があったのか、ゆずり葉も両親も詳しく訊こうとはしない。
けれど、洋平が図らずも殺人未遂をしてしまったなんてことは、全く思っていないはずだ。
ちらりとも疑わず自分のことを信じてくれていることは、その曇りない瞳を見ればわかる。
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