第27話
次のライブから、明の目は中央から右端へと視線の先を変えていた。どうしても、どうしても目で追ってしまうのだ。あの日、自分の耳をくすぐったあの声の持ち主を、小原涼子を見ざるを得ないのだ。けれど、涼子の目線が自分の方に向こうとすると明はサッと目をそらす。目が合ってしまったら、涼子のことをどうやって見つめたらいいか分からなくなってしまうからだ。
こんなことは、初めてだった。かななん、佳奈美を応援しているときは目線があったときはただただ嬉しく温かい気持ちになるばかりで、こんな胸がモヤモヤする感情が湧いてくることはなかったのだ。
「僕、どうしちゃったんだろう」
推しメンを変更したいのか?たまたまちょっと声をかけられたからって、こんなすぐにあんなに応援していたかななんからりょんりょんへと乗り換えたいのだろうか。
自分の移り気に呆れそうになってくるが、この感情はどうにもアイドルを、かななんを応援していた時と違う気がする。
どんなに考えてもわからなかった明に、その真実を教えてくれたのもまた小原涼子だった。
ライブ後に駐車場へと急ぎ足で向かう明の背中を、トンと柔らかい指が叩く。慌てて振り向くとそこには今の明の心の中をすっかり占領してしまっているその人がいた。
「り、りょんりょん、涼子さん」
「ふふっ、涼子さんだって、変な感じ、でもそういうのちょっといいね。あのさ、あの日にキミが落としていった鈴蘭私がもらっちゃった。ドライフラワーにして部屋に飾ってるけどいい?」
「あ、あ、もちろん」
「ふふ、ア・リ・ガ・ト、ところでキミさ、あれからいっつも私のこと見てくれるね。すっごくうれしいっ!でも、こっちが見るとさ、すぐに目をそらしちゃうんだよね」
「えと、えと、どうしたらいいかわからなくて」
「えー、照れちゃうの?照れちゃうんだぁ」
「て、てれ、そうなのかな」
「わー、可愛い、照れてるーふふふ、キミ」
「あ、明」
「明君ってさ、私に恋しちゃってるみたいね、ふふふ」
「こ、こい」
その時明は、自分のその感情が恋心であるということに初めて気づいた。
それから二人の関係が恋人同士になるまで、そう時間はかからなかった。
涼子はライブ後に寮を抜けだし、明の車の中でシートを倒し寝そべって待っている。
他のファンに、気づかれてしまわぬようにだ。
それから二人は、夕暮れから夜へと変わっていく街並みの中をただただ車で走り抜けていく。他愛ないおしゃべりで笑いあいながら。
手を握るどころか頬にキスもしない。そんな二人の関係に変化を与えたのもまたも涼子だった。
「私、大人になりたいの」
そんな彼女の言葉に抗うことなど、明にできようはずもなかった。
涼子の妊娠を知った時、明は責任を取ると言った。
涼子が十六になったら、すぐに籍を入れようと。
父親に勘当されるかもしれないが、大学はやめて肉体労働や日雇いの仕事をしてでもなんとしてでも涼子と子供を養うと。
涼子はその明の言葉に「ありがとう」と一言だけ告げて微笑んだが、そんなことは、まっぴらごめんだった。
その日暮らしの十代のママ、髪の毛を振り乱して赤ん坊と夫の面倒を見て一日中家事にかかりきり、一円でも安いスーパーを探してチラシとにらめっこしながら駆け回る。
それにお坊ちゃん育ちで線の細い明に、肉体労働なんてまともに務まるとはとても思えない。
結局、自分も働くことになるのではないか。そうやって働いても働いても貧しい暮らし、夫婦であの山の家に戻る?ありえない。そんなことちっとも望んでいない。そんな貧相な暮らしが、この私にふさわしいだなんて到底思えやしない。
自分は、ずっと輝いていたいのだ。視線のシャワーを全身に浴びていたいのだ。
「お腹も目立ってきちゃって、そろそろドライブデートも体にキツくなってくるかもしれない。もうグループもやめちゃったし、だれに気兼ねする必要もないし前に誘ってくれたキャンプに行こうよ」
涼子の提案に、明は満面の笑顔で何度も何度も頷いた。
何しろ、恋人としての初めてのデートらしいデートなのだ。嬉しくないはずがない。
みんなのアイドルりょんりょんは、もう自分だけの恋人の涼子になった。
そして数年後には、自分の妻となり子供とともに家族になるのだ。
「私ね、山育ちだから山菜料理は得意なの、父さんも美味しい美味しいってたくさん食べてくれたのよ」
「わー、涼子の手料理か。考えてみたら付き合って初めて食べるよ。楽しみだなー」
「ふふふ、天国に行くように美味しいわよ」
涼子お手製のイヌサフサンのしょうゆ漬けを、明は美味しそうに頬張った。
「涼子はきっといい奥さん、いいママになるよ」
それが、彼の最後の言葉。
その息が、命の灯がすっかり消えてしまうまで、涼子は明の頭を撫で続けていた。
指紋が残らぬように、ビニール手袋をはめた手で。
ひよこのようにぽわぽわと逆立って赤ん坊のように柔らかな毛の感触が、ビニール越しにうっすらと伝わってくる。
「可愛い人」
本心だった。
愛とまでは言えないかもしれないが、涼子は確かに明のことが好きだった。
チャラそうな見た目に反して実は内気で、一度こうだと決めたら一途なところ。
育ちの良さからくる品の良い振る舞いが。
恋人を思いやるその優しさ、とても大学生とは思えない可愛らしい笑顔が。
そして一番好きなのは、明の間抜けなところだった。
低予算で作ったメジャーデビュー曲がアイドル雑誌を中心に思いのほか話題になり、涼子にはソロデビューの話がきていた。
ライブを観に来た老舗芸能事務所の社長が、涼子に目を付けたのだ。
女優の素質があるとも言われ、社長と食事をすることも増えた。
自分の誘いを断り、社長とあちこちでかけていく涼子を明は全く疑わない。
半同棲状態になっていた明の一人暮らしの部屋から荷物がどんどん新しい部屋に移されても、「断捨離だ」の一言で納得する。
可愛い間抜けちゃん、涼子は明のその間抜けさが最後まで好きだった。
そして、明との最初で最後となったキャンプデートの二週間前、小原涼子の姿は彼女の生まれたあの山の集落の家の中にあった。
失踪した父が家に帰ってきたから、ではない。
父は失踪などしていない。ずっとあの家にいたのだ。
誰の目にも触れない、家族しかその存在を知らない地下室の中に。
涼子の小学校卒業式の一週間前、父親は娘の髪を引っ張り地下室へと引きずりおろした。折檻をし、しばらく閉じ込めておくためだ。しかし、いつものように腕を振り上げたとたん父親に異変が起きた。ううっ、と呻きながら頭を押さえてバッタリと倒れたのだ。
父親は、脳出血を起こしていたようだった。
涼子は、そんな父親の面倒を見続けた。東京へ行きアイドルとして活動を始めてからも明に送ってもらって山の家に来ては、彼の口に様々なきのこ料理を運び続けた。
「ねぇ父さん、美味しい、美味しいでしょ」
「ゔゔゔあーうー」
「これはねぇ、父さんが母さんに食べさせていたテングタケの佃煮だよ。ねー父さんって毒キノコに詳しいんだよねぇ、どうしてこんなもの体の弱ってた母さんに食べさせたの?私さぁこの前ここに閉じ込められたときに埋まってた父さんの日記読んじゃったんだよね」
「ゔゔ、うあ」
「あー、何言ってんのかわかんないな、あぁ美味しい、美味しいっていってるんだね。じゃあ次はイヌサフラン、馬酔木の花のお茶も作りたかったけど、見つからなかったんだよね。残念、えっと次はタマゴタケの炒め物、はい、あーん、美味しいーい?あっ間違えたベニテングタケだったーあはは、父さんこれ飲んだら下痢しちゃうねー、ピーピーだぁ、うわっきったなーうふふふふ、さぁゴックン」
小原涼子は倒れた父親を地下室に寝かせると、彼が書き残していた母へと与え続けた毒日記の記録を参考にして山の中を探し、下痢や腹痛、そして死亡例も報じられているあらゆる毒キノコや植物を調理したものを彼の口に運び続けた。
意識混濁状態にある父親はそれをほとんど飲み込むことはできなかったが、涼子はその症例をすべてメモ帳に書き込み続けた。
そして、彼は村田明の死の二週間前に、ひっそりと地下で息絶えた。
涼子はその体に土をかけ、肉が腐りきった後に骨をコツコツと時間をかけて砕き、庭の樹木の下に点々と埋めていった。
その骨が栄養となったのか、夾竹桃の木は特に育ちが良くなったように感じた。
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