第23話
うきうきした小原涼子は、翌朝電車で食べる弁当を作ってくれと洋平に要求した。
ひょっとしてピクニックにでも出かけるのかと思い「どこかへ行くの?」と尋ねると、「台本の読み合わせがあるの」と楽し気に答える。
どうやら、一人で東京に戻るらしい。
洋平が電話をするためにちょっと出かけただけであんなに怒っていたのに。
本当に自分勝手な女だ。
でも洋平は怒れない。口答えももうしない。
この我がままに振り回されることに、あれやこれやと頼まれることに、受け入れたときの心底嬉しそうな無邪気な笑顔に、不思議な心地よさを覚えてしまってそれに骨の髄まで漬かりきってしまっていたから。
胡瓜とハムのサンドイッチ、ニラとトマトの玉子焼き、簡単なものばかりではあったが洋平の料理の腕はめきめきと上達していた。
夏の終わりに家族に披露したら、きっと母は口をあんぐり開けて驚くに違いない。
「夜には帰るわ」
弾むような足取りで山を下りていく小原涼子を見送った後、洋平は座敷の畳の上にごろんと寝転がりうーんと大きく伸びをした。
「あー確かに気持ちいいや」
小原涼子がここでいつも気持ちよさそうに昼寝している気持ちが分かるような気がする。
自宅には畳の部屋が無くて、フローリングに直に座ったり寝転ぶことも無い。
まだ青臭い匂いがほのかに残る畳の上は、程よく硬くでも痛くはなくちょうどいい刺激を背中に与えてくれる。
しばしごろごろとしていたが、夜によく眠れたせいか特に眠気は襲ってこない。
この家で初めて過ごす一人の昼下がり、のびのびできると思っていたのに意外なほど退屈だ。
本が数冊あるにはあるが、小原涼子が芝居のために購入したのであろう外国の難しそうな分厚い小説ばかりで開く気にもならない。
いつもだって小原涼子は昼寝している時間なのだから、別に転がっている女が一人いないだけで変わらないはずなのにどこか違う気がする。
この時間に自分がいつも何をしていたか、考えてもよく分からない。
昼飯の片づけをしてぼーっと夕飯の献立を考えていたくらいかもしれない。
冷蔵庫の食材は残り少なく、夜に戻ってくる小原涼子が買って持って帰ってくると言っていた。お土産も買ってくるから、今日は夕飯を用意しなくていいとも。
そうなるとやることが無い。
「暇だ暇だ暇だー」と大声をあげても、当たり前だが何の反応も返ってこない。
畳をごろごろと転がりまわってもみたが、特別面白くも無かった。
縁側に出てぼおっと空を眺めてみる。
雲しかない。「わー雲がソフトクリームに見えるよ。美味しそ―」こんなことが恥ずかしげもなく感じられそして言えるのは幼稚園児までだ。雲は雲。それ以外の何物でもない。
壁の時計の針をじっと見つめていると、一秒が一分にも感じる。
退屈、その言葉をここまで実感するのは、今が初めてではないだろうか。
心から言える。これこそが退屈そのものだと。
こうなってくると、忘れよう、封印しようと思っていたアレが心を占めてくる。
そう、小原涼子から死守したアレ、携帯電話だ。
「今だったらいいよな、自分がいないのにさ、文句言う筋合いないよな。電話が終わったらちゃんとここに戻ってくるし、逃げ出したりしねーし」
念のためきっちり充電しておいた携帯電話片手に、軽い足取りで山道を下る。
ゆずり葉、ゆずり葉、ゆずり葉、ゆーちゃん!
頭の中も、胸の中もそれでいっぱい。
覚えているアンテナの立ったポイントで足を止めると、短縮ボタンを押す指が心なしか震えてくる。
ツー、ッツー、ツー
話し中、拍子抜けしてぽとりと落としてしまった携帯電話を拾い上げてその場にしゃがむこむ。
「誰と話してるんだろ」
ゆずり葉には横浜での新しい生活がある。洋平が話したい、電話をかけたいと思ったタイミングでお気軽にほいほい出て話してくれるわけではないのだ。
すっかり気落ちしてしまいじっとりとした目で恨めし気に画面を眺めていると、ぶるるるるいきなり振動が手に伝わって来た。
発信者名はゆーちゃん。
「えっえっ」
また慌てて落としそうになる携帯電話を何とか持ち直し、通話ボタンを押す。
「も、もしもひっ」
「あっ、洋ちゃん?」
「うん、うんそうだよ。あれっゆーちゃんさっき通話中で、えっ俺の番号出てたの?」
「そうなの?こっちもかけてたんだよ」
まさかの同時発信だった。
「えっ、でもどうしてこの番号分かったの?」
「うん、今朝洋ちゃんママからメールが来ててね、洋ちゃんの番号教えてもらったの。山奥にいるから繋がらないからもしれないけど気が向いたらかけてあげてね、話たがってるよーって」
「あっ、あっ、そうなんだ」
いつもなら余計なことを!と腹を立ててしまうところだが、今日に限ってはナイスアシストお母さん!
「でも繋がってよかったー今は圏外のところにいないの?」
「あ、あぁ、たまたまね。散歩してたら電波はいるポイントに来たからさぁ、そんで、かけてみた」
ゆずり葉に電話がしたくてわざわざここまで来たことは、照れくさくてとても口にできない。
「わーめっちゃナイスタイミングだったんだねーでも同時にかけちゃってるのはそうでもないか。どっちかな」
「ははっ、そうだな、どっちなんだろうな」
絶妙に良くて悪いタイミング、一発で繋がることはできなかったけれど、自分が話したいと思ったタイミングでゆずり葉も自分にかけてくれたことが、洋平にはたまらなく嬉しかった。
「でもさー、洋ちゃんなんでそんなところにいるの?天文部の夏休みの合宿とか?」
洋平は、中学で天文部に所属している。
しかし星が大好きだったり、詳しいわけではない。自分の誕生日に関わる天の川がどんな星々で形成されているのかも全く分かっていない。
幼い時ゆずり葉が小瀬川家に泊まりに来て、二段ベッドのカーテンのすき間から二人でひょこっと顔を出して夜空を見上げ「洋ちゃんほら、あれが天の川だよ。織姫と彦星はあの反対と反対にいるんだよ。それで一年に一回、洋ちゃんのお誕生日にしか会えないんだよ。」と指さして教えてくれても、どうしたらそれが川に見えるのかさっぱり分からなかった。
そんな洋平が何故天文部に入ったかというと、楽そうだからだ。
三年生のいかにも星好きでいつも部室で望遠鏡を手入れしている部長以外はすべて幽霊部員で、新任で断り切れずに顧問を引き受けた先生もめったに部室には顔を出さない。
中学では部活動に全員加入しなければいけなかったため一応ぶらぶらと見学はしてみたが、この天文部以外は皆それなりに活動をしていて実に面倒くさそうだった。
月に一度ふらっと部室に行って十分ほど辛抱していれば何も言わない部長率いる天文部は、洋平にとってまさに理想の部だった。
そんな理由をゆずり葉は知らず、洋平が星に興味を持って部活動にきちんと参加していると誤解しているのかもしれない。
しかしそんなことを言うということは、母はゆずり葉宛のメールに今小瀬川家が、洋平が置かれている状況をちらりとでも匂わせる文章を書かなかったのだろう。
もし洋平が全てを話したら、電話の向こうにいるゆずり葉はきっととても心配するだろう。今は言わない方がいいのかもしれない。自宅に帰ってからあらためてきちんと会って、そして顔を見て直に話す方がいいんだろう。それが正解なんだろうと頭では分かっているのだが、何故ここにいるのか。その理由をゆずり葉に誤魔化して嘘を吐くのは嫌だった。
そんなことをしてしまったら、次に顔を合わせた時にゆずり葉の目をまっすぐ見られない様な気がする。
余計な心配をかけたくはない、でもこのことで嘘を吐くのはもっと嫌だ。
何もかも話そう、話してしまおう。
そう決意して一度ぎゅっと口を引き締めた後、洋平はゆずり葉がいなくなってから自分の身に起きたことを全て話し始めた。
「ゆーちゃん、聞いてほしいことがあるんだ」
「うん」
洋平の話をきちんと聞こうと口を閉じたゆずり葉、電話越しにすーっすーっと微かに息遣いだけが伝わってくる。それを聞いていると、バクバクしていた胸が次第に落ち着いて来て驚くほど冷静に話すことが出来た。
「最初はさ、ただ偶然会っただけの女の人で二度と会うこともないだろうなって思ったんだ。紅い傘が随分派手だなーって」
両親にも話していない、雨の日のあの出会いのことも。
「もじゃもじゃした髭のおっさん、砂糖がくっついたりしてきったねーんだ。何かソイツが調べろとかって言ってさ」
記者の山辺のことも。
「いやー、俺って正に平平凡凡を絵にかいたような中学生なのにさ、まさか便所で生まれてたとはなーいや、しかし便所の息子ってパワーワードだよな」
学校で便所のこと揶揄され、友人が一人もいなくなってしまったことも。
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