第24話
「そんでさ、俺の産みの母親っての?それが女優なんだってさ、ナントカ映画祭でのみーねーとされたとか、でも受賞じゃねーの。地味だよなぁ。俺を産んだときは地下アイドルだったんだってよ、本人は地下じゃねーとかほざいてるけどよ。でもよぉ、小原涼子なんて誰もしんねーしなぁ。地下女優だ、地下女優。何にもできなくってよー俺すっかり料理がうまくなっちまった」
自分を産んだ小原涼子のことも。
ただ一つ、横宮夫人が洋平の、小瀬川家の秘密をメールで流布したという山辺の言い分を除いては。
話し終えた時、ゆずり葉の息遣いはすすり泣きへと変わった。
「ぐすっ、すんっ、洋ちゃん、大変だったね。頑張ったね、えらいね」
「いや、俺別になんもやってねーよ」
「ううん、すごいよ。洋ちゃんは偉いよ。私はあの時そんなに強くなれなかった」
洋平だってそんなに強いわけではない。今だってゆずり葉の温かい声を聞いて、必死でこらえてはいるが目じりから今にもこぼれ落ちそうな熱い涙が溜まっている。
「ゆずり葉のほうがすげーよ、横浜でしっかりやってんだろ、またバスケやってるとかすげーじゃん」
「ふふっ、でもブランクがあるから、レギュラーになれてないよ」
「でも毎日部活やってんだろ、すげーじゃん」
「あはは、そこー、すげーのハードル低っ」
「うっせ、俺にとってはすげーんだよ」
「はいはい、じゃああたしはすごい、あたしは偉い、洋ちゃんより偉い雲の上の人!」
「そこまで言ってねーし」
洋平が知らず知らずゆーちゃんからゆずり葉へと呼び名を変えていたことに、この時二人は気付かなかった。それぐらいお互いの言葉を、声を感じることに懸命になっていたのだ。
「あっ、充電切れそう」
「俺のもだ。やべっ、じゃあ帰ったら」
「うん、帰ったら」
ピッピッピッツーッツーッ
電池が切れるまで夢中で話し続けた洋平とゆずり葉は、最後まで口には出来なかったが夏の終わりに再会することを約束した。
日時も場所も会うという言葉すら口にしていなくても、互いにそれが再開の約束であると心で通じ合っていたのだ。
日が暮れかかるけもの道を家へと戻る洋平の足取りは、まるでスキップでもしているように軽快で弾んでいる。
夏が終わったら、ゆずり葉に会える。
それが洋平の足に、胸に、大きな力を与えてくれている。
不思議な絆で結ばれていると感じ始めていた産みの母、小原涼子との別れに対して感じていた寂しさに似た小さな胸の痛みは、すっかり吹き飛ばされ微塵も残っておらず、むしろ今すぐ横浜に飛んでいきたいくらいの心持ちになっていた。
「あっ、やべっ、開けっ放しで出てきちまった」
家に着くと、引き戸が開いたままになっている。
はやる気持ちで電話をもって駆け出したため、閉めるのをすっかり忘れていたのだ。
「あーあ、でも盗られるモンなんか何もねーし、ま、いっか」
人っ気のない集落で侵入してくるのなど、蚊ぐらいだろう。
小原涼子もまだ東京から戻ってきていないし、蚊取り線香を炊いて証拠を隠滅しておけばいい。
「あー、蚊取り線香、どこだ」
洋平が朝起きるとブタの蚊取り線香からはもう既に煙が出ていて、その中身がどこに置いてあるのか知らない。
「うーん、どこにしまった。小原涼子」
座敷の押し入れ、台所の棚、思い付き限り全て開けてみたが、どこにも蚊取り線香はない。
「他に入れるとこなんてあったかな」
考え込んでいると、流し台の横にある扉、小原涼子が物置だと言っていたその場所が目についた。
「ごちゃごちゃしてるよ。何があるかもうわかんない」
そう言われて、一度も中に入ったことはない。
ここに来てから仕方なく担当しているが、洋平は元々家事が好きなわけではない。
弟の手前、母の皿洗いの手伝いは一緒にするが、子供部屋の掃除はほとんど任せっきりだ。
毎日作っていて、料理はちょっと楽しいかもしれないと思い始めてはいたが、掃除はそうではない。
小原涼子がまき散らした食べかす目当てに蟻が侵入してこないために、しぶしぶやっているだけだ。
汚い物置の扉なんて開けてしまって、「ちょうどいいや片づけといて」などと頼まれてしまったらとんでもないことになる。
けれど、今、小原涼子はいない。
蚊も退治しなければならない。
足の踏み場がないほど散らかっていたら、そっと扉を閉じてしまえばいいだけだ。
本当は少し興味があった物置の扉を開けるとき、洋平は少しワクワクしていた。
ここには、何か面白いものがあるかもしれない。
そんな少年らしいちょっとした冒険心といたずら心だった。
ギギギギギ
錆びた蝶番はうるさい音を出し、ゆっくりと扉は開いた。
小原涼子がここから出てきたときはもっとスムーズに開いていたような気がするが、何かコツがあるのかもしれない。
汚いんだろうな、埃で目が開けられないかも。
そう覚悟して足を踏み入れたそこには何も無かった。
がらんとした半間ほどのスペースに、頭上には裸電球、それだけ。
置いてあるものなど何もない。
勿論、蚊取り線香もそこには無かった。
「何だ、物置じゃないじゃん、物ねーし」
拍子抜けして台所に戻ろうとしていると、右側の壁、その奥からだろうかガタガタとかすかな物音が聞こえてくる。
「ん?」
耳を当ててみると壁はギギギと動き、その下に穴が開いているのを見つけた。
「何だこれ?」
覗いてみると、人ひとりやっと通れそうなその穴の正体は地下へと続く階段だった。
そして物音はその下から聞こえてきているようだ。
「地下に物置があんのかな?この音は……動物でも入り込んじまったんだろうか」
初めてここに来た時小原涼子をからかったが、この山には狸、ではなくアライグマが住み着いている。誰かがペットとして飼いきれなくなったアライグマを人気のないこの山に捨てたようで、野生化しているのだ。
以前縁側で桃を食べていた時に、匂いに釣られたのか下からひょこっと顔を出してきて、びっくりしてぎゃーっと齧りかけの桃を放り投げてしまったら、それを器用にキャッチすると、意外なほどの逃げ足の早さでぴゅーっとどこかへ消えてしまった。
「ひょっとしたら、アイツが入り込んでたりしていて」
あの前足の器用さなら、開いている玄関から桃欲しさに侵入し、鍵のかかっていないここに入り込むのも容易いはずだ。
「一応、念のため」
頭上の裸電球のたよりない明かりだけで、ゆっくりゆっくりと細い階段を下りてゆく。
一段、 また一段と降りるたびに物音は大きくなってくる。
「おーい、クマ、アライグマいるのかー」
小さな引き戸を開けて覗き込むと、そこにいたのはアライグマではなかった。
「ゔ―ゔ―」
布巾のような物で猿轡をされ、後ろ手に縛られて格子のついた狭い場所に押し込められているのは……
随分痩せてはいるが、あのもじゃもじゃの髭は間違いない、フリーの記者山辺その人だった。
「えっ、えっ」
あまりにも衝撃を受けすぎて、そんな声しか出てこない。
山辺は何かもごもご言おうとしているようだが、猿轡のせいでよく聞き取れない。
洋平は恐る恐る格子の間から手を伸ばし、猿轡をずらそうとしたが固くて少ししかずらせなかった。
「水、水を」
息も絶え絶えに山辺が繰り返すのは、誰にやられたとか出してくれとかではなく、水、それだけだった。
水、取ってこなくては、階段を戻ろうとすると、その横に水入れがあるのに気づいた。
紅い花びらと葉の浮かべられたハーブウォーターらしき水、これが山辺の言っている水かもしれない。
すっかり気が動転していた洋平はその水差しを運び、格子のすき間からたらりたらりとこぼした。山辺はもぞもぞと芋虫のように移動し、その雫に口を突き出す。
一口、三口、三口、飲み進めた山辺は「ゔゔゔ」とうなり声をあげると口の端から泡を吹き、顔はがくりと横に向き、もううんともすんとも言わなくなった。
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