第25話
「なっ、なんで?」
慌てふためく洋平の頭上からトン、トン、トトン、リズミカルで軽やかな足音が近づいてくる。
「あぁ、アンタがやってくれたんだ。ご苦労さん」
昏く、乾いた声。
階段の中腹から洋平を見下ろす小原涼子の瞳は、冷たく何の光も見えない。
「ちょろちょろちょろちょろまとわりつくから鬱陶しくてね、本のインタビューに答えるって言ったらほいほいついて来てさぁ、二人っきりで地下で話しましょうって言われたときのあのふがふがした鼻息、キモいったらありゃしない。挙句に勝手に階段から転がり落ちてさぁ、頭ぶつけてやんの。ま、手間が省けたけど」
他にはありえないと気づいてはいた。
でも、認めたくはなかった。
小原涼子が、こんなことをしたとは。
「夾竹桃ってさ、毒があるのよ。知ってた?茎から汁をちゅーっと水にまぜてさ、マズそうなのに他に飲むもんないと、それでも欲しくなんのね、でも意外と日数かかったわー、ひいふうみぃ、ま、いいや。最後のトドメはアンタがしたんだしね、アタシには関係ないっと」
呆然とする洋平の前で、小原涼子は実に楽しそうにケラケラ笑う。
「ね、アンタまだ十四になってないでしょ?ならいいよね。女優である産みの母を庇うために脅して来た記者を毒殺した少年A!あー、涙を誘うわ!」
自分の元まで降りてくることなく、くるりと背を向けて去って行った小原涼子。
2000年7月7日、ニ十世紀最後の七夕の日。そんな印象的な日にちを、洋平を産んだ日を、あの女は覚えてもいないのだ。
まだ十三だと思っているのだ。
不思議な繋がり、自分と小原涼子の間にはそんなもの最初からどこにもなかった。
便所で産み捨てられたその時から、他人以上の他人だったのだ。
泡を吹いてこと切れた男の檻の前でぺたりとひざを折って崩れ落ち、洋平は上を見上げてケタケタと大きな声をあげて笑った。その目は乾いて、一滴の雫も沸いてはこない。
「あぁ、痒い、痒い、痒い、がゆいよぉぉ……」
生物学上の父親のことを聞いたあの夜に掻きむしった背中の傷がうずいて、痒くて痒くて堪らなくなる。
ガリ、ガリ、ぎりぎりり、ぐちゅり
掻きむしった背中では、治りかけの瘡蓋がめりりと傷をむき出しにし、そこにギリギリと立てた爪の間からは、たらりたらりと赤い筋が流れ出し白いシャツをまだらに染めていった。
「これで全てが良くなるわ。小原涼子、再始動よ」
お気に入りの紅い口紅を引き、真新しい帽子を被った小原涼子は記者会見場へと向かっていた。
一昨日、埼玉県内に住む十四歳の少年が山奥の一軒家で意識不明の状態で見つかり緊急搬送された。
その家の地下には身元不明の中年男性の遺体があり、司法解剖により意識不明の少年と同じオレアンドリン中毒と判明した。夾竹桃に多く含まれている成分だ。
しかし死因はそれではなく、後頭部に強い衝撃を受けたことによる外傷性脳損傷によるものだった。
埼玉県に住む十四歳の少年と中年男、一体どんな接点があったのと騒がれ、少年が【自分が毒を飲ませた。ごめんなさい】という走り書きが残されていたなどとも報道された。
この少年は一体何者なのか、未成年という事で情報が開示されず、記者たちは躍起になって情報を探った。
そんな中、事件の起きた家の持ち主であるという女優の小原涼子からマスコミ各社宛にFAXが届く。
【夾竹桃事件の少年Aとわたくし小原涼子は、血縁関係にあります。この度の事件の経緯について思い当たるところがございますので、場を設けてお話したいと存じます。】
事件に対しての詳細は記されておらず、夕方五時という各局のニュース放送時間に合わせて行われるというその記者会見の場所は、小原涼子の主演映画である【遠い我が子】の製作発表が行われるのと同じビジネスホテルの会議場だった。
時間より少し前に記者たちが現地に駆けつけると、そこには喪服のような黒いドレスを身にまとい、唇の紅が一層際立つ小原涼子の姿があった。
彼女は深々と頭を下げると、スタッフが急遽作った手作り感満載の【遠い我が子】のポスターの前でぽろりと一筋の涙を流した後、カメラをじっと見据え、記者たちが驚愕する事実を話し始める。
「巷で夾竹桃事件と呼ばれる事件で重要参考人と報道されている少年は、私の実の息子です」
どう見ても二十代のこの女優が、十四歳の少年の母親?
記者たちは色めき立ち、矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
「どういうことですか?十代でお産みになったと?」
「お子さんと、お亡くなりになった中年男性との関係はご存じですか?」
「何故、あの家に少年と男性が一緒に?」
その質問一つ一つに、小原涼子は丁寧に答える。
「えぇ、中学二年生、十三の時に産んだ子供です」
「あの男性は、十代の、アイドル時代からの熱心なファンの方、おそらくその方なのではないかと思われます。ずっと応援して頂いておりました。現在はフリーの記者をされていたとのことで、私のことを根掘り葉掘りあちらこちらに聞きまわって随分詳しく調べてもおられて、それで息子のことも探し出して近づいていたようです」
「それは……息子を地元から避難させるために用意した家で、何故あの男性がいっしょにいたのかは」
十三歳当時の出産の状況なども訊かれ、小原涼子はコンビニのトイレで産んだこと、その後気を失ってしまい病院に運ばれて入院していたため名乗り出るのが遅れたことなども話した。
そうなると、年配の記者はあのコンビニトイレ事件のことを思い起こす。
たいして珍しくもない事件だが、ニ十世紀最後の七夕、そして捨てられた子供の命をコンビニ青年が救ったということで、類似の事件よりも印象に残っていたのだ。
「では、あなたがあの十四年前のコンビニトイレ事件のお子さんの母親でもあるということですね」
小原涼子はこっくりと頷き、大きな両の目からはらはらと涙を零す。
「あの時は子供過ぎて、妊娠に全く気付いていませんでした。とてもとても小さく弱い時にあんな場所で産んでしまって、あの子には本当に申し訳ないことをしました。お腹を痛めて一人で必死に産んだ子です。手放したくなんかなかった。でも幼過ぎて無理でした。きちんと育ててくださった今のご両親には、感謝してもしきれません」
女優としては、目を見張るようなとびぬけた美人でもない。
大きな猫のような目、小粒な鼻を挟んでそれらはひらめのように遠く離れている。
その下には、ぽてっとしてでも小さな花のつぼみのような唇、顎のキュッと尖った逆三角形の小さな顔に配置されたそれらのパーツはどこかアンバランスで、じっと見つめていると何となく不安になってくる。でもなぜか目の離せない。可愛いのかかわいくないのか、見れば見るほど分からなくなってくる不思議な顔。
そして、星も月もない漆黒の夜のようなドレスと唇の深紅、その両極端な色がぬけるように白い肌を引き立たせて、大きな猫のような瞳は涙できらりと光る。そして少し震えたなめらかで濡れたような声が、聴衆の耳の奥までしっとりと入り込んでくる。
会場に集まった男性記者たちは、すっかり彼女に魅了されていた。
会場の予約時間の終了が差し迫り、最後の質問者に選ばれたのは魅惑のムードに紛らわされないベテランの女性リポーターだった。
「今まで他の方々のされたご質問では分かりかねたんですが、ご子息がそのフリーの記者の方を毒殺しようとした動機、それは一体何だと思われますか?」
そんな突っ込んだ質問にも小原涼子は少しも動じず、女性リポーターの目を真っすぐに見つめ、ゆっくりと口を開いた。
その様子はさながらぷっくりと膨らんだ蕾が艶やかな深紅の花を開かせたようで、さしもの女性リポーターも息をのむ。
「先ずは男性の死因が毒殺ではなく、外傷性脳損傷であることを述べさせていただきます。これは警察発表でも明らかになっている事実です。そして、ご質問にありました少年の動機とされるものについてですが……これは私の憶測でしかないのですが、私を守るためだと思います……亡くなった方のことをあれこれ言うのは心苦しいのですが、あの方、記者の方は私が休業していた間のことを調べて回るうちに出産のことも気づきました。そして、この事実を発表されたくなければ自分と個人的に関係を持てと私を脅したんです、私は息子、あの子にそんなことは打ち明けられませんでしたが、とても敏感な子ですから察していたのかもしれません。あの子はとても心の優しい子ですから、事情があったとはいえ自分を捨てたこんな母親のことを放っておけなかったんです。見捨てることが出来なかったんです…」
この返答を最後に会見は終了し、最後に小原涼子は去っていく記者団に対し深々と頭を下げる。
その肩は小刻みに震えていて、記者たちはまた泣いているのだろうと思った。
全てのマスコミが去った会見場、まだ小原涼子は頭を深々と下げている。
ふっ、ふっ、ふふっ。
誰にも聞こえぬような小さな声で、けれど確かに、彼女は笑っていた。
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