第31話
小原涼子は殺人犯として、一瞬人々の記憶に強く焼き付き、そして徐々に忘れ去られていった。
彼女の産んだ子、小瀬川洋平が一冊の本を出版するまでは、その存在を覚えている人はよほどの好事家しか残っていなかった。
【便所の息子】それが洋平が出した本の名前、小原涼子との出会い、別れ、そして彼女から聞いたその人生が赤裸々に綴られている。
小原涼子の自殺後、小瀬川一家は埼玉を離れ、横浜のゆずり葉の家の近くに引っ越した。
事情を知る彼女の祖父の計らいで、役所を退職した父の再就職先もすぐに見つかった。
洋平はゆずり葉と同じ中学に入学し、再度天文部に入部して今度は星のことを真剣に学び始めた。
その年の冬に来るふたご座流星群を、ゆずり葉と一緒に見つめながらしっかりとした解説が出来るように。
高校も共に地元の公立校に進んだが、ゆずり葉は体育教師になるため、そして洋平は天文学を学ぶため、大学はバラバラになり、双方が大学の寮へと入ったため住まいも遠く離れた。
けれど休みの間は互いの住む町の中間点で待ち合わせて近況を話し合い、卒業する少し前にやっと交際をスタートさせる。
周囲がやきもきするほどの奥手な二人のロマンスは、始まったと同時に猛スピードで進み始め何と卒業と同時に婚約をすっ飛ばしていきなり結婚をした。
「もう、やきもきしていつくっつくのかしら、いつゴールインしてくれるのかしらなーんてかわいい二人の将来を心配しちゃってたのがバカみたいよ。でもお母さんすっごく幸せ、最高の気分よ。今まで生きてきて最高!めっちゃハッピーって感じね」
母はおどけてからかいながら、二人の門出を祝福した。
孫の結婚を何よりも楽しみにしていたゆずり葉の祖父の豪助は、かねてから闘病中であったこともあり、その花嫁姿を見届けた半年後に孫夫妻に見守られながらその人生を終えたが、ゆずり葉は新しい家族が増えたから大丈夫大丈夫と涙をこらえ、洋平はその肩を優しく抱いた。
そして、そのまた半年後二人の初めての子供、長男の縁が誕生した後、洋平はある決心をした。
高校を卒業するくらいからずっと声をかけられ続けていた新興出版社の編集者に、事件について書くことを了承したのだ。
洋平が仕事の合間に三年もの年月をかけて書き上げた【便所の息子】は、出版不況のさなか三百万部を超える空前の大ヒットとなる。
一年後には映画化も決定し、今一番人気の若手女優、坂田カレンがプロアマ問わず全国から2000人もの応募者が殺到した公開オーディションを勝ち抜き、主演の小原涼子役に決定した。
アイドル出身の女優という経歴は小原涼子と同じで、だから痛いほど気持ちが分かるのだと坂田カレンは涙ながらにオーディションで語ったのだと映画雑誌に監督がコメントを寄せていた。
しかし、こちらはグループではなくたった一人でドームを埋めていたような今どき珍しいソロの元トップアイドルであり、幼いころから町中で噂されるほどかわいいと評判でわざわざ芸能事務所の社長が東北地方の端にある自宅まで、高級羊羹のぎっしり詰まった菓子折りと学業と仕事の両立が可能であるという知り合いの大学教授に作ってもらったレポートを持参してスカウトに訪れ、真面目一徹の小学校の教員夫婦であり娘の芸能界入りを渋る両親を説得して契約にこぎつけた。
その後三か月のレッスンを経て坂田カレンは中学卒業とともに事務所の中堅アイドルグループにセンターとして加入し、その生まれ持った華によって四年もの間鳴かず飛ばずだったそれを瞬く間にトップグループへと押し上げた。しかし、グループの生え抜きメンバーでありサブリーダーの下山ユリカが未成年の喫煙と飲酒、ファンとの交際というスキャンダルを引き起こしワイドショーの直撃に「カレンがまぶしかった。ねたましかった。自分では真ん中に立てないとやぶれかぶれになった」と吐露し涙ぐんだのを受け、「自分は誰かを押しのけてまでセンターでいたくない」という言葉を残し彼女とともにグループを脱退しソロデビューする。
独り立ちした坂田カレンはティーン誌のモデルとしても活動をはじめ、ぱっちりとした目に生まれつきカールしたまつげ、すっきりとした鼻筋にふっくらと愛らしい桃色の唇、陶器のような肌といった非の打ちどころのないその完璧なお人形のように整った顔立ちで同世代の女子の絶大な支持を受け、読者による投票で決まる生まれ変わったらなりたい顔一位に八年もの間君臨し続け、アイドル卒業宣言とともに殿堂入りするまでその牙城は崩されることはなかった。
正に人気者を絵にかいたような女の子の憧れの的として、あえてライトを煌々と当てなくてもきらきらと明るい日の当たる道をずっと歩いてきたようなまさにトップオブトップ、そして小原涼子との一番の違いは八年間トップを走り続けたアイドル人生において、ただの一度もほんの小さなスキャンダルすらも起こさなかった潔癖の女王であるということ。
まぁ、アイドル時代の小原涼子も一度たりとも世間にスキャンダルがさらされることはなかったのだが、それは彼女の存在を一部のアイドルマニアしか知らなかったこと。無名すぎてそのゴシップを追いかける価値もなかったということに尽きるのだが。
同じ芸能界の住人とはいえボトムオブボトム、底辺でもがいていた何から何まで真逆の存在である小原涼子の気持ちなんて、爪の先ほども理解できない、わかるはずもないのだ。
そもそも、ノースキャンダル潔癖の女王である坂田カレン、小原涼子のそのスキャンダラスな人生に嫌悪感を覚え、ずっと応援してくれているファンをがっかりさせたくない裏切るわけにはいかないと出演のオファーを固辞した彼女を、かつて小原涼子がノミネートされたワールドインディーズダイヤモンドシネマ国際映画賞で新人監督賞を受賞したばかりの新進気鋭の常田監督は、どうにか口説き落とそうとした。
これは、アイドルから本格派の大人の女優としてもろ肌を見せずとも脱皮する絶好のチャンスだ。雄大で優雅な蝶となって羽ばたいていい意味でファンを裏切り、今度は演技派の女優である坂田カレンとして応援してもらいましょうよ。などとあれやこれやと言葉を並べ立てて色よい返事を引き出そうとしたが、それでも「私よりもっとふさわしい人がいるのではないか」と首を縦に振らない彼女を説得するために、公開オーディションを開催することにした。
「ここまであなたを説得してきましたが、あなたのおっしゃる通り世の中には私がその存在を知らない、見落としている女優がいるのかもしれない。そんな女優と出会ってしまったなら、ひょっとしたらあなたを選ばないかもしれない。けれど、私は坂田カレン、あなた以上にこの小原涼子役を演じ切れる女優はいないのだと今でも信じている。世間では坂田カレンは優等生過ぎて面白くない。欠点がないのが欠点などという連中もいるがそれは違う、あなたの瞳の奥にふつふつと燃え滾る情熱、熱いマグマが私には見えるんだ!絶対にあなたを選ぶと言い切れない状況でこんなことを言うのは無責任なのかもしれないが、あなたの女優としての可能性にこの常田の監督人生を賭けてみたい!是非オーディションに参加してください。頼む、一生のお願いだ。あなたの力で私を男に、真の映画監督にしてください」
後に彼女の初ヌードシーンを撮り初スキャンダルの相手となり、夫ともなる才気みなぎった若き映画監督のそのいかにも真摯で真っすぐに見えるまなざしに胸を打たれた坂田カレンは、彼の望み通りに一応募者の一人として一般の女子中高生、地下からB級C級のアイドルたちに混じって公開オーディションに参加することを了承した。
絶対にこの役を勝ち取りたい、この監督をここまで魅了する小原涼子という謎めいた人物を演じ切ってみたい、今までの自分の殻を破って世の中を驚かせてやるんだ。
レールを決して踏み外さない様に、お行儀よく期待に応えてきたおきれいな優等生の坂田カレンはもうおしまい。そう、私はもうステージの上のアイドルじゃない、非日常ではなく日常を生きる市井の人物を演じる女優なのよ!どんな役でも自分色に染め上げる。そんな女優に私はなるんだ!そんな今までにないほどのやる気をみなぎらせて。
しかし、そのオーディションは、出来レースであった。
監督の常田は主演坂田カレンの資料を提出して、既に彼女がCMに出演している企業たちに大口のスポンサーを募っていたのだ。
見せかけのオーディション、坂田本人にすら真実を知らされずに開催されたそれは世の注目を集め、主演決定の際には街中で号外が配られたほどだった。
願って願って、素知らぬ顔をしながらも泥の底でみっともなくもがいてあがいてやっとその手が届き掴み取れると思っていた小原涼子の幻の主演映画は、冷たく堅く閉じた彼女の手の中からするりと逃げていきそのままお蔵入りとなってしまったが、彼女の人生はこうして映画となる。
エンドロールには実際の彼女の最後の写真が、ほんの一瞬、数秒間ではあるが映し出される予定だ。
坂田カレンの華々しい初主演映画のエンドロールの添え物、それで満足なのかどうかは今となっては分かりようもないが。
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