第12話
平日の昼下がりの図書館、人影はまばらで暇そうな中高年がちらほら、本は読んでおらずスポーツ新聞を広げたり、酒臭い寝息を立てて三人掛けの椅子にごろりと寝ていたり。
唯一熱心に分厚い本を読んでいるのは、本と同じような分厚い眼鏡をかけた洋平と同じ年頃、もしくは少し年少に見える少年だけだ。
おいおい、学校はどうしたんだよ。あー、俺も人のこと言えねぇか。
心の中で自分に突っ込み、漫画の棚に直行する。
洋平は読書が好きではない。時代小説好きの父に時代劇の原作小説を熱心に薦められても、表紙の文字を見ただけでうんざりして最初の一ページすら開くことはなかった。
けれど、中学生が日中の昼間に時間をつぶせる場所など他にはない、漫画喫茶に行けば金もかかるし、身分証明書の提示を求められる。
下手すれば学校をサボっていると思われて、面倒なことになるかもしれない。
その上自分が近頃話題の便所の息子だと気づかれたら、どんなことになるかわからない。
記事では一般の未成年ということでもちろん実名は伏せられ、写真も乗ってはいなかったが、同じ中学の生徒の仕業であろうか、洋平の実名はネットの噂系掲示板にさらされてしまっていた。父が抗議して数日後に削除はされはしたが、かなりの人数がすでに目にしてしまっていることだろう。
洋平にとって、今は自分の名を名乗ることすらままならない状況になっていた。
そんなわけで消去法で暇つぶしの場所に選ばれた図書館ではあるが、ここには洋平の心を引き付けるものはこれといってなかった。
パソコンルームに行けばネットゲームが出来るかもしれないが、便所検索のことを思い出したくなくてもうあの部屋には寄り付きたくはない。
オーディオ施設もあるが、クラシックや昔のヒット曲には興味がない。
やはり消去法で漫画を読むことにするが、ここにある漫画は世界の名作の漫画版や漫画で学ぶ歴史とかそんなものばかりだ。最新の少年誌などは何処を探してもない。
仕方なくその中の一冊を手に取り、開いている椅子に腰を下ろしぱらぱらと平安時代の人たちの何だが優雅そうな暮らしの絵をぺらぺらとめくる。
あまり面白くない、和歌を詠んで色恋にうつつを抜かしているだけでバトルも何も出てこない。
退屈で欠伸が出そうになっていると、すぐ隣に誰かがすっと座って来た。
こんなにガラガラで人がいないのに、よりによって横に座られるとは実にうっとうしい。
咳を移動しようとすると、むわっと嫌なにおいが鼻につく。
燻ったような煙草の匂い、ハッとして横を見ると嫌な予感通り諸悪の根源、あのフリーの記者のにやつき顔がそこにあった。
「やぁ小瀬川君、今日は学校休みかい?」
良くもぬけぬけとそんなことが!
「誰のせいで!よく恥ずかしげもなく言えるな!何なんですかあんた!あんたのせいでうちはもうめちゃくちゃだ!」
思わず出てしまった大きな声に、ちらばっている中高年たちの視線が一斉に洋平に集中する。
「うるせぇぞ!クゾガキが、ここがどこだと思ってるんだ!ガキゃぁ学校いけ、学校に」
酔っ払い親父は洋平の何倍もの窓ガラスがわなわなと揺れそうなほどの大声でがなりたてて、カウンターの中にいるおばさん司書がはらはらした顔でこちらの様子を伺っている。
どっちがうるせーんだよ。図書館は本を読む場所で、酔っ払いが休憩や昼寝する場所じゃねーんだよ。と言い返したいところだったが、今こんなところで揉め事を起こすわけにはいかない。両親に迷惑がかかるとぐっと呑み込み、出口へと向かった。
すると、あのフリーの記者がつかず離れず後ろからついてくる。
洋平がスピードを上げるとぜぇぜぇ息を吐きながらやはりスピードを上げて追ってくる。
これ以上自分に何の用があるのだ。例え生まれた時に多少のニュースになったとはいえ、自分はただの平凡な男子中学生だ。そんな中学生にまとわりついたところで、売れる記事が書けるとは思えない。もうこれ以上掻きまわされたくない。
洋平はぴたりと歩を止め、記者に対峙した。
「いい加減にしてください!あなた記者なんですよね。確かに俺は便所で生まれた養子です。けどそれは俺が起こした事件じゃない。俺はただの中学生なんです。こんな風にまとわりついてあれやこれや言いまわって、そんなことしていいと思ってるんですか!」
洋平の剣幕に記者はひるむことなくにたにたと笑い続け、右手を顔の前でブンブン振った。
「いやいや小瀬川君、誤解だよぉー、私はねぇ、君のことを言いふらしたりなんてしてませんよぉー」
ここまできてもしらばっくれるとは何という恥知らずな。洋平の耳は怒りでカーッと熱くなる。
「じゃあ、誰がやったって言うんですか!」
「うーん、それはねぇ、知りたい?まー君次第では教えてあげなくもなくはないんだけどねぇ」
「はぁ、もういいです!二度と付きまとわないでください!今度顔を見たら通報しますよ!」
どんっと足を踏み鳴らし去ろうとする洋平の腕を記者はぐっと掴み、耳元に口を近づけ囁く。
「本当にそれでいいの?君、本当のお母さん、産みの親のこと知りたくない?」
節くれだってぬとぬとした指の感触、煙たい臭い息、気が遠くなりそうな洋平の頭の中に、産みの親という言葉が突き刺さる。
産みの親、便所に自分を産み捨てて逃げた女、どこの誰だか分らぬ女、そんな女のことを自分は知りたいのだろうか。いや、知る必要はない。そうだ、それが正しい。
はっきりと答えが出たはずなのに、すぐにその場を立ち去るべきなのに洋平はその場を動けなかった。
「どう、知りたいだろ、ふぅむ、これがねぇ、実に驚くような人なんだよ。ここじゃとても口にできないからねぇ、うん、ちょっと駅裏の談話室モン・シェリまで行こうか」
この男に、記者について行ってはいけない。今更産みの親なんて知りたくもない、そうきっぱりと断るべきだと分かっているのに、洋平は男の手を振りほどけずそのまま談話室、駅裏のビルの地下にあるそこへと連れていかれた。
もくもくと煙草の煙がただよう今どき珍しい喫茶店、それが談話室の正体だった。
この地で育った洋平もその存在を知らなかったくらい子供には縁遠い場所だ。
談話室、という名の通り普段洋平が家族で行くような明るく開放的な雰囲気ではなく、それぞれの席が区切られ、会話をするのに適した場所のようだ。
「じゃ、私はキリマンジャロ、小瀬川君は」
「水でいいです」
「いやいやそんなわけにはいかないでしょー、こんな感じだけどね子供用のメニューもあるんだよ、ふむプリンアラモードでいいかな。代金はね気にしなくていいんだよ。私が払うから、奢りだよ、奢りっ」
「いえ、本当に結構ですから!」
こんな男に奢ってもらうなんて、汚い賄賂を貰うようで嫌だった。
「はぁ、強情だなぁ、君のお母さんもなかなか気が強い人だけど、やっぱ遺伝かなぁ」
いらいらする、この男は一体何を、どれだけ知っているのだ。
洋平がトントンと指でテーブルを叩くと、そのいら立ちがおかしくてたまらないといった調子で記者は口を歪ませる。
「じゃあ、本題に入ろうか、君の聞きたくてたまらないであろうお母さんの話、いや、その前にー」
勿体ぶって唇を左右に動かし、来たばかりのキリマンジャロコーヒーをのんびりと一口飲んだ記者の様子を見て、洋平の胸に小さな疑念が浮かぶ。
こいつもしかして、何も知らねーんじゃ、適当なこと言って俺を誘い出して記事のネタを拾うつもりじゃ、それならこんなところにもう一秒たりともいたくはない。
席を立とうとした洋平の顔の前に、いつの間にか火をつけていた煙草の煙を記者はふーっと吹きかけて来た。
「げほほっ……」
むせる洋平を楽しそうににやにや眺めた後、記者はもごもごと歯を嘗め回し、口を開く。
「あのねぇ、さっきも言った通り、私はシロもシロ、潔白純白なんですよ。小瀬川君の事情を触れ回ったのはねぇ、横宮の奥さんなんですよ」
意外な言葉に、洋平は口をぽかんと開け、すぐさま反論する。
「はぁ!横宮家はもう引っ越していないけど!アンタ適当なこと言うなよ」
ロクデナシのクズとはいえ一応大人相手ではあったが、言葉に気を遣うふりなどもうできなかった。
「いやいや、携帯のメールでね、あの日にご近所中の奥さんに一斉送信したみたいでね。私もびっくりしちゃったよ。まさかねぇ、あの奥さんそんなことするような人に見えなかったのにねぇ」
「はぁ!何であんたがそんなこと知ってるんだよ。おかしいじゃねぇか、そもそも横宮さん俺のこと、その、生まれた場所のこと知ってたのかよ」
「いやいやいや、そこは私のミスなんだけどね、何年も取材してやっと足取りがつかめたってのに、君のお母さん。あっ育てのお母さんの方ね、もー頑固でさぁ、取材拒否、ノーコメントの一点張りでね、全然話をしてくれないもんだから、お母さんと家族ぐるみで親しい仲の横宮の奥さんに話を聞きにいっていたんだよ、いやーそれはもう親身になって君に同情して、可哀想可哀想と涙まではらはら流すからこんなことになるはねぇ」
「じゃあ、結局あんたが横宮さんにぺらぺらしゃべったってことじゃねぇか」
「まぁ、そういうことになるねぇ、だからミスだって反省しているでしょう」
にたにたとだらしないその顔は、とても反省しているようには見えない。
「けど、何でそれで俺のことメールなんて……」
「いやねぇ、これは駅前のショッピングセンターで偶然奥様方の話をちょっと耳にしたんだけねぇ、どうやら君のお母さん、あっ小瀬川さんの方ね」
「だからっ!もうそういうめんどい言い方」
「あーごめんねぇ、じゃあ小瀬川さんでいいか、小瀬川さんが君のことを直接教えてくれなかったのに腹がたっていたようだね、自分たち夫婦の揉め事は全部知っているのに、自分たちのことだけ噂になって追い立てられるように引っ越しまでしたのに君たちが平和に今まで通りに家族仲良く暮らしているのは不公平だってさ」
「そんな……」
「いやぁ、女の友情って脆いもんだよねぇ、あっけないねぇ、すぐ割れちまう風船ガムのようだよ」
自分がきっかけで壊れたというのに、記者はやはり楽しそうに残りのコーヒーに砂糖のステックを二本も入れて、掻きまわしもせずにずずずと下品な音をかき鳴らして一気に飲み干した。
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