第13話
「やー、やはりキリマンジャロは旨いねぇ」
あんなに砂糖を入れて、本当のコーヒーの味なんてわかるものか。
もじゃもじゃの髭にまぶされた褐色に染められた砂糖が、一層それを醜く見せる。
目をそらした洋平に、記者は一度も使わなかったティースプーンを差し出しぐるぐると回す。
「さぁ、これで私の潔白は、はっきりと証明されたでしょう。疑われたままじゃ気分が悪いからね、さてさてでは本題に入ろうか、お待ちかねの本当のお母さんの話だ」
「俺はっ、待ってなんか」
「まぁまぁ、聞いてもびっくりして気を失ったりしないでね、君のお母さんはね、あの小原涼子その人なんだよ」
「はぁ?」
聞いたことも無い名前だ。あの、ってどういうことだ。
「えっ知らないの?小原涼子だよ、あの」
「あのって……」
「はぁぁ、そうか、今の若い子は知らないのか」
からかわれているのかと思ったが、どうやらこの洋平の反応に心からびっくりしているように見える記者の反応は芝居ではないようだ。
小原涼子とはいったい何者なのか。
まさか、何かとてつもない犯罪でもおかしたのだろうか。
もし、自分の産みの母が凶悪な未曽有の犯罪者で、まさか死刑囚だったりしたら……
そんなことが明るみに出たら、家族はもっとひどい目にあわされる。
母は、父は、そのことを知っているのだろうか。
嫌な考えが、頭の中をぐるぐる巡る。
やはりこの場所に来るべきではなかった。一度知ってしまったら、もう二度と元には戻れないというのに。
のこのこと胸糞の悪いこの男について来てしまったことを、洋平はひどく後悔した。
「そうかぁ、私もぴっちぴちの若いころ、といっても三十過ぎのころに随分世話になったもんだけどなぁ。そうかぁ、今のティーンは名前も知らないかぁ」
この反応を見ると、どうやら最悪の事態、死刑囚などではないらしい。しかし世話になった?一体何を世話されたというのだ。知り合いなのか?
怪訝そうな洋平の顔に気付き、記者は照れくさそうにまだ砂糖のこびりついた汚らしい髭をざりうざりと撫でつける。
「いやー、息子さんの前で世話になったなんて言うべきじゃなかったな、小原涼子君のお母さんは、女優さんなんだよ」
女優、世話になった。ここで洋平はピンときた。いくら子供と言ってももう中学二年生の男子、この二つの言葉がセットになった時の意味くらいは分かる。
「あーセクシーな方の」
これ以外ないではないか。
「あぁ違う違う!いや、何て言ったらいいか、そりゃちょっとエッチな作品にも出てたけどね、フルヌードにはなっていないしね、大事なところは少しも露にしてないから!小原涼子はそっちじゃない!何も付かない女優、アクトレスだよ」
さっきまでの飄々とした様子と違って、記者は異様に慌てている。
その様子が、洋平には余計に不気味に見えて来た。
一体この男と小原涼子とはどういった関係ないのか。
知りたい一割、知りたくない九割といった気分だ。
「うーん、確かにここ数年目立たなかったけど、独立系映画で評価されてワールドインディースダイヤモンドシネマ国際映画祭で助演女優賞にノミネートされてこれからの日本を代表することになるであろう国際的演技派女優ってちょっと話題になったんだけどなぁ。知らないかぁ」
名前を知らせてよほど驚くと思っていたらしい記者は、明らかにがっかりして肩を落とす。
そんな態度をとられても、知らないものは知らないのだ。
小原涼子も、なんちゃらかんちゃら映画祭とかいうのも。それにノミネートで話題って何だ。
そこは受賞じゃないのかよ。地味だ、女優という言葉の派手な響きのわりに何だか地味だ。むしろセクシーな方の女優だった方が、こっちは驚いたかもしれない。
確かに意外、というか想像もしていなかった産みの母という人間の職業だったのだが、付随する情報の地味さに洋平が受けるはずだった衝撃はざぶりとその心を覆い隠すことも無く静かに引き潮のように消えていった。
それにこんな話を聞いたところで、何か事情が変わるわけでもない。
母が言っていたように、産みの親は自分のことを放棄している。戸籍上も今は何も関係ない、ただ産んだ、産んで便所に捨てただけの存在なのだ。
自分を産んだときも既に女優だったのかは知らないが、何にせよ自分の存在自体が邪魔だったんだろう。育てるのが難しい状況だったにしても、施設に相談して預けるという考えも浮かばないくらいに産んですぐ捨ててしまいたかった。それほどいらなかったのだ。
頭がすーっと冷えていくような気がした。
もう、これ以上そんな女の情報はいらない。
「そうですか、分かりました。じゃあ俺はここで失礼します」
「いや、ちょっと待って、まだ話は終わってないよ」
「あー、もういいです」
「君を産んだときの事情、それは知りたくないの?」
「うーん、もう充分ですから」
「そんなこと言わないで、折角ここまで聞いたんだからもうちょっと我慢して最後まで聞いてよ」
我慢して聞いているのが分かっているというのに何故引き留めるのか、腹が立って仕方がないがここで切り上げてまた付きまとわれて家にまで押しかけて来られたらかなわない。
渋々座りなおした洋平の前で、記者は今日一番の嬉しそうな顔、まるで獣のような野卑な笑顔を見せる。
「小原涼子は2000年当時、まだ中学二年生、君と同じたった十三歳の少女だった」
「えっ、そんな、若い……」
これには洋平もさすがに驚いた。まさかそんな子供だったとは。
「そう、そしてね、秋葉原のライブハウスでプレアイドル、今でいう地下アイドルとしてグループで活動しながら膝枕カフェでアルバイトをしていたんだ」
「えっ、中二なのにバイトって…」
「そう、今だったら大問題だ。って当時でも中学生のアルバイトは禁止されていたけれどね、うーん身元確認とかがまだゆるかったんだろうねぇ。まぁそれはさておき、一般的な認知度はなかったけれど彼女の所属していたグループ、にゃんにゃんプリン5はアイドルファンの間ではマニア的な人気を集めていたんだ」
にゃんにゃんプリン5……そのある種のパワーワードに、洋平にはもう相槌を打つ元気すら無かった。
「ところがその年の五月、急に小原涼子、三毛プリンは姿を消した。膝枕カフェからもグループからも。その後何のアナウンスもなく、まるで元からそんなメンバーは初めっからいなかったかのように、にゃんにゃんプリンは4と名前を変えてその後数年の間活動を続けた。我々のようなコアなアイドルファンの中では消えた小原涼子について都市伝説のような噂が広がってね、まぁそれは置いといて」
都市伝説、何やら気になるがここで口を挟んだら話が長くなる。もうこんなどうでもいい話は終わらせてさっさと帰りたい。
洋平は、貝のように口をきゅっと閉じた。
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