第19話

「着いたわよ、さっさと荷物置いてきな」

 ちゃんと機能しているのか疑わしい簡易的な鍵を開けると、青い畳が一面に広がっている。外は古いが、畳は新しくしたらしい。

「ここさ、元々あたしの実家だったの。色々あって手放したけど、最近買い戻したのよ」

 辺りにはボロボロの放置された空き家が数件あるばかり、こんな寂しい場所で小原涼子は育ったのだ。

「友達は狸とかじゃねーの、だからそんな乱暴な性格に育ったんだ」

 ぼそっと呟いた洋平の悪口を、小原涼子は聞き逃さない。

「アンタホント口が悪いね、だからそんなにひん曲がってるんだよ」

「はぁ、どこが?」

「この口がだよー」

 小原涼子は不機嫌そうにへの字に曲げていた洋平の口をぎゅっと掴み左右にびょーんっと引っ張った。

「いってぇぇー何すんだこのババア!」

「曲がった口を矯正してやってんだろ!この生意気にひん曲がった口をね」

「いい加減にしろ!クソババア」

 ババアという言葉に怒ったのか、その指には一層力がこめられ、ジタバタともがいてやっと放してもらえた頃には、唇がすっかり腫れあがっていた。

「あーすごいたらこくちびる、でも曲がってるよりはマシだよ」

「うっせー、飯がちゃんと食えなかったらどうしてくれるんだよ」

「飯?」

 小原涼子のキョトンとした顔に、洋平は唖然とした。

「まさか飯、用意してないの?」

「えっ、アタシが作るの?何で?」

 一体普段、どうやって生活をしているのだろう。

 この女は…‥

 洋平が呆れた顔で自分のバッグからレトルトのカレーを取り出し、台所に向かおうとすると小原涼子はしげしげとそれを眺めた後、不満そうに口を尖らせた。

「えー、レトルトとか食べたい気分じゃないんだけど。ご飯もないし」

 その問題発言に、洋平は二度唖然とする。

「えっ、炊飯器はいいとして、パックの飯とかも用意してないのかよ!そんなんで人を呼びつけたのか?」

「あー、炊飯器はあるわよ。お米もある」

「はぁ、あるんじゃねぇか。じゃあ何で、無いとか言うんだよ」

「メシとかご飯って言ったからじゃん」

「はぁ?」

 見た目は大人の女なのに、この女の中身はまるで子供だ。苦笑しながら台所へ向かうと、どうせ空だろうと思って開けた冷蔵庫の中には野菜や肉がぎっしりと詰まっている。

「材料いっぱいあんじゃん、これで料理できるだろ」

「そ、じゃあアンタ作んなよ」

「作んなよって、これお前が自分で用意したんだろ」

「はぁ、違うけど」

「じゃあ誰が」 

「知り合いにさぁ、適当に生活に必要なもん準備しといてって昨日頼んどいた。アタシ普段料理とかしないからさぁ、こんなんまで用意されてるとは思ってなかったわ」

「じゃあいつもは何食ってんだ」

「外食とか、デリバリーとかさ。ファーストフードで済ませるのが一番多いかな」

「はぁ、しょうがねぇなぁ」

 渋々夕飯づくりを引き受けた体になった洋平だが、料理をしたことなど小学校の家庭科の授業でしかない。

 それも女子が作っている横で、ちょろちょろしてちょっと切ったり掻き混ぜたりしただけだ。

 はたして自分に料理が出来るのか心もとないが、向こうの座敷の畳の上ででーんっと大の字になって寝転がっているあの女に任せるよりはまだましだ。

 あの調子では、まともに口にできるようなものが出来上がる気が全くしない。

「どれどれ」

 流しの下の棚を覗いてみると、封の開いていない調味料が一通りとカレーのルゥが見つかった。

「カレーでいいか」

 どうせカレーならさっきのレトルトでいいのにとも思うのだが、小原涼子が承知しないだろう。

 ファーストフードを常用しているくせに、レトルトには文句を言うとか全く意味が分からない。本当にわがままな女だ。

 トン、ドン、ダンッ

 まっさらなまな板の上でジャガイモやニンジンを切ってみるが、母のようにリズミカルにトントントンというわけにはいかない。

「はぁ、こんなもんか」

 不揃いで不格好な野菜たち、へろへろと千切れた豚のブロック肉。

「まぁ、ごろごろの方がうまいって言うし」

 適当に自分を誤魔化しながら鍋にそれらをぶっこみ、コンロに火をつける。

 無洗米をセットし炊飯器のスイッチもいれる。

 後は待つばかり、一息ついたところでチノパンのポケットに入れていた携帯のことを思い出した。

 時間を確認しようと思ってふと見ると、着信履歴が数件ある。全て母からだ。

 タクシーの振動で、バイブに気付かなかったらしい。

「あー、心配してるだろうな」

 口を開けて呑気に眠っている小原涼子の横をすり抜け、外へと出る。

 日はすっかり暮れていて、ぼんやりとした月明りが不気味に付近のあばら家を照らしていた。

「はー、化け物でも出そうだな」

 眉を顰めて母の番号をリダイアルするが、かからない。

 画面を確認すると、アンテナの代わりに圏外との文字があった。

「クッソ田舎、ふざけんな。これじゃ役に立たねぇーじゃんか」

 腹立ちまぎれにかからない携帯を投げ捨てようとして、我に返ってまたしまい込む。

 今は暗くて移動できないが、どこか電波の拾える場所もあるかもしれない、どうしてもの場合は麓に戻ればいいのだ。

 ぐるりと見まわしたところ、あの家には電話らしきものはなかった。唯一の外部との連絡手段であるこの携帯電話を一時のいら立ちで壊してしまうなんて馬鹿だ。

 小原涼子を起こしてまた面倒くさく絡まれないようにこっそりと家に戻ると、座敷で寝ていたはずのその姿はなく、台所にもいなかった。

 外に出たなら洋平にもわかったはずなのに、その気配はなかった。

 一体どこへ行ったんだ?この家は平屋なのに、見渡す限りどこにもいない。

 首をひねっていると、勝手口だと思っていた台所の扉がバタンと開き、小原涼子が鼻をひくひくさせながら近づいて来た。

「わー、いい匂い、そろそろできそう?」

「いや、まだ煮てるだけでルウもいれてないし、ほら今いれるとこ」

「湯気がいい匂いってこと。うーん野菜と肉のマリアージュ」

 ファーストフードばかり食べている子供舌のくせに、いっぱしのグルメ気取りのその口ぶりが少し可笑しい。

 洋平がプッと吹き出すと、小原涼子はまた口をきゅっとつまんできた。

「だから、そりぇやめろって」

「ぷぷっ、そりぇだって、赤ちゃんかよ」

「お前が口掴んでるからだろ」

「離して欲しい?」

「当たり前だろ」

「じゃあそのお前って言うのやめな」

「じゃあ、何て」

「ママ?」

「ぜってぇ、ひゃだ」

「こっちも嫌だよ」

「じゃあ、言うなよ」

「うーん、じゃあ涼子様とか」

「うわぁ言いたくねぇ。様ってタマかよ」

「じゃあ涼子でいいよ。洋平」

 小原涼子はこの子やアンタではなく、洋平を初めて名前で呼んだ。

 何だか背中がむず痒くなってもぞもぞしていると、摘ままれたままの唇にぎりりと長い爪が食い込んでくる。

「ぎゃっ!」

「り・ょ・う・こ」

 湿った声がぬるりと耳に入り込む。

「ひ、ひょうこ」

「ひになってるけど、まぁよろしい」

「いい加減にしろよな!小原涼子!」

 本日受難続きの洋平の唇は、まるで口紅を塗ったように紅くなってしまった。

 本人がそれに気づいていないことが、不幸中の幸いだ。

 バタバタとじゃれ合っているうちに、ご飯は炊きあがり、カレーは無事成功と言いたいところだが、鍋の底が少し焦げ付いていた。

「ほら、おま、小原涼子のせいで焦げちまったじゃねーか」

「フン、お焦げって美味しいでしょ、感謝なさいよ」

「それは土鍋で炊く飯の場合だろ!カレーじゃねぇよ」

「細かいこというな」

 ぎゃんぎゃんきゃんきゃん続く会話、喉が痛くなってくるほどにここまでしゃべり続けるなんて、家でもめったにないことだ。ほぼというか九割九分九厘が言い合いの口喧嘩であったが。

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